『あなたに恋をしても、いいですか?』 著:鈴野葉桜 イラスト:天満あこ 価格:500円 レーベル:フリージア文庫

【冒頭試し読み】

目次

あなたに恋をしても、いいですか?
番外編「小倉」
書き下ろしSS「風邪」

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あなたに恋をしても、いいですか?

 家から車で約十分、そこから電車に乗ること二十分で名古屋に着く。そんな場所に私の家はあった。一戸建ての庭つき、小さいながらも暖かいその家が大好きだった。
 けれど今、この家にその面影はない。
 名古屋にある専門学校の入学式。その入学式に出席するはずだった私とお母さん。でも出席することはできなかった。近くのパーキングエリアに車を止め、駅に向かおうとした瞬間、お母さんは車にはねられて帰らない人になってしまったのだから。
 お母さんがひかれた直後、車が慌てたようにパーキングエリアを去っていく。私はそんなことどうでもよくて、鞄の中に入れておいた携帯を取り出し、掛かりつけの病院へ電話をかけた。応対してくれたのはお母さんの同僚でもある看護師さんで、どうにか私を落ち着かせようとしていたが、目の前にいるお母さんを見たら、落ち着くことなんてできなかった。
 頭からとめどなく流れる真っ赤な血。まるで壊れた蛇口のように血が出てくる。その場所を押さえても、なかなか止まらない。次第にそれは、真っ白なお母さんのスーツや私の手を赤く染めた。
 でもこんなときに起きてもおかしくない喘息は、奇跡のようにおきなくて。耳元の携帯から聞える看護師さんの声を遠くに感じながら、お母さんと何度も叫んでいた。何度も叫んでいたせいか、駅から出てきた人や近所の人が、何事かと近寄ってくる。ある女の人は悲鳴を上げ、ある男の人は携帯で誰かに電話をかけていた。お母さん、としか言わない私の傍にかけ寄ってきたおじいさんは、いつの間にか震えていた体を励ますようにさすってくれた。暖かいその手に支えられ、どうにか自分を保つことができた私は、冷たくなっていくお母さんの手を少しでも温めようとぎゅっと握り続けた。
 大きなサイレンを鳴らして、ようやく救急車とパトカーが到着した。救急車を手配したのは看護師さんだけど、パトカーは誰が手配をしたのだろうか。お母さんから視線を外して周りにいる人を順に見てくこと、先程電話をしていた男の人がパトカーに乗っていた警察官に何か話しているようだった。男の人は私の視線に気づくと、すぐさま近くまでかけよってきた。
「ここは任せて、行きなさい」
「……はい」
 男の人は私が頷くのを確認すると、警察官の元へ戻っていく。救急隊員に手をひかれ救急車に乗ると、すぐさま救急車は病院へと向かった。
 いつもお世話になっている大きな病院に着くと、お母さんはすぐ手術室に入った。看護師さんに、手術室の前に設置してある長椅子に座って待つようにと促される。何時間待っていたっていい、お母さんが助かるならずっと待っていよう。そんな気持ちで座りながら、待ち続けていた。

 しかし運命は無情だった。

 手術室はすぐに開き、お医者さんから家族の方ですか、と尋ねられる。私は頷きながら立ち上がり、頭一つ分高いお医者さんを見上げる。いきなり立ち上がったせいで、貧血になり、頭がくらっとしたけど、こんなのお母さんに比べたら軽いものだ。
「他にご家族の方は?」
「老人ホームに祖母がいますが、こちらには来ることができません」
「そうですか」
「……あの、お母さんは?」
 一筋の希望を胸に抱いて、恐る恐る尋ねてみる。
 けれどお医者さんから告げられた言葉は冷たくて、二度と聞きたくないものだった。
「小倉春子さんは……亡くなりました」
 頭部を強く撃ったことや、大量の血を失ったことが原因だと淡々と告げるお医者さんの声が、まるで心の持たないロボットが話しているように聞こえた。
 全てを聞き終え、頭が理解すると同時にバランス感覚を失い、ひんやりとした廊下に座りこんでしまった。
 そんな私の様子にお医者さんは言葉なく、黙りこんでしまう。静かな病院だったけれど、子どもの泣き声や誰かが移動する足音は絶え間なく聞えていた。それなのに、世界が音を失くしてしまったかのように、一切音が聞えなくなる。
「……う、そでしょう? 嘘だ、よ……」
 嘘だと言ったって、お母さんが戻ってくるわけじゃない。泣き叫んだってお母さんは帰ってこない。頭で分かっていても、声が枯れようとも叫ぶことを止められなかった。泣き叫ぶ私をお医者さんはなだめようとするが、その声は私には届かない。ただの口パクだ。お母さんを失っただけでなく、音すらも私は失ってしまったのだろうか。
「もう、嫌だよ……」
 声に出しているはずの呟きも、聞こえない。もうどうすればいいのか分からなかった。
「落ち着いて、優花ちゃん」
 そんな時、一つの声が一切の音を受け付けなかった耳に届く。穏やかで優しい男性の声だった。その声には聞き覚えがあった。後ろから声をかける男性の顔を見ようと、振り返れば、顔にも見覚えがあった。いつも画面の向こうで聴いていた声だ。いつも雑誌で見る笑った顔が印象に残るあの人だ。
 小倉秀。人気声優の彼がそこにいた。
「な、んで」
 彼がなぜここにいて、私を心配そうにのぞきこんでいるのか。でもその理由はすぐに理解した。彼の隣には小倉徹也さん、一度だけ会ったことのあるお母さんの再婚相手がいた。徹也さんは私にお母さんの死を告げた先生と難しい表情で何かを話し合っていた。徹也さんと小倉秀。二人の顔はとても似ていた。小倉秀が二十歳ほど歳をとったら徹也さんみたいになるんじゃないか、と思えるぐらい似ている。なぜ前に会ったときに気づかなかったのだろうか、と思うくらいそっくりだった。
「優花ちゃん、ゆっくりと呼吸をするんだ」
 小倉秀の声をきっかけに世界が音を取り戻すと、徹也さんの声が耳に入ってきた。
 そこではた、と気づく。いつの間に呼吸が乱れていたのだろうか、と。言われるまでずっと気づかなかった。けれど気がついてしまうと、体は息苦しさをすぐに訴えてきた。
 どうやって、息を吸うんだっけ……。
 ヒューヒューと人生で何度も聞いたことのある音が喉から聞える。
「優花ちゃん、優花ちゃんっ」
 小倉秀が焦りまじりの声で、必死に呼びかけてくる。大好きな声に呼ばれ、嬉しいのに喘息のせいで声を出すどころか息ができない。
 徹也さんがどこからか持ってきた担架に乗せられ、ひんやりとしたシーツが体を冷たくしていく。
 このまま死ぬのかな。死んだらお母さんに会えるよね。……でも、小倉秀にはもう会えなくなっちゃうのは嫌だな。
 苦しさのあまり目を開けていられなくなり、閉じてしまう。目を閉じた先は暗闇で、何も見えない。そこにあったのは恐怖だった。体が少しずつ冷たくなり、暗闇が私を包む。まるで死神が迎えに来ているかのようだった。
 生きたいよ、生きたい、よ。
 お母さんのところに行きたい。でもまだやりたいことはたくさんある。
 生きたい。生きたい。生きたい。
 心の中で何度も唱える。すると、右手が暖かい何かに包まれた。まるで命をそこから吹き込まれているような感覚に見舞われる。
「優花ちゃん」
 耳元で囁く小倉秀の声。そこで理解する。この暖かさは小倉秀が分けてくれたものなのだと。冷たくなった体が暖かくなっていくのがわかる。
 ありがとう。
 声にならない声を心の中で囁いて、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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