ささ蟹の知らせ 平安朝恋物語シリーズ
『ささ蟹の知らせ 平安朝恋物語シリーズ』

著:横尾湖衣 価格:300円  レーベル:蘭月文庫

【冒頭試し読み】

 ― 目次 ―

    ◆「露草のような君」
       一、秋深草天皇の時代
       二、思い人を求めて
       三、箏の音
       四、逢坂の関
       五、男皇子誕生
       六、露草のような君

    ◆「ささ蟹の知らせ」
       一、ささ蟹
       二、蔵人少将と侍従
       三、引き裂かれる二人
       四、頭中将の助言
       五、ささ蟹の知らせ

    ◆「空より降る桜」
       一、雪にまつわる話
       二、式部卿宮の姫君
       三、観音の導きによる再会
       四、約束
       五、胡蝶の夢

    ◆「あとがき」

「露草のような君」

    一、秋深草天皇の時代

 これもまた、今ではもう昔の話になります。その時代の帝は、確か……。あ、そうそう、秋深草天皇《あきふかくさてんのう》でございます。その秋深草天皇の恋のお話になります。

 当時の左大臣は三条殿《さんじょうどの》と呼ばれている方で、その三条殿には紅梅少将《こうばいのしょうしょう》と美しい六人の姫君がいました。一番上の姫君は先の帝、京極天皇《きょうごくてんのう》の中宮でした。京極天皇と中宮の間には、姫宮が二人いました。京極天皇には他に女御が五人、更衣が九人いましたが、どの方との間にも男の御子はいませんでした。そのため、次の天皇の位には、親子ほどの年の離れた弟宮がつきました。その方が秋深草天皇でございます。
 話をもとに戻しまして、三条殿の次の姫君ですが、その方は兵部卿宮《ひょうぶきょうのみや》の北の方(正妻)でした。そして、三番目の姫君は大将殿の、四番目の姫君は少納言殿の、とそれぞれ北の方に収まっていました。残る二人の姫君ですが、一番下の姫君は女御として入内《じゅだい》する予定となっていました。

***

    二、思い人を求めて

 飛香舎《ひぎょうしゃ》の藤が、風に波立ち香る頃でございました。秋深草天皇、その当時の今上帝が、宮中に参内していた紅梅少将を御前に呼び寄せました。
「少将よ。そう言えば、そなたの妹君、五の君はどのようにお過ごしか?」
「恐れながら申し上げます。帝、五の君ではなく六の君でございます」
「わかっておる。朕は病がちだという、五の君の方が気に掛かって」
「五の君は、床に伏せっている日が多くございます。しかし、少し気分が良いときなどは、女房たちに物語を読ませて楽しんだり、庭を眺めたりしております。最近、夜も気分が良いようで、時々箏《そう》をつま弾く音が聞こえてまいります」
 その言葉を聞いて、帝はしばらく黙っていました。右手を顎に持っていき、何かを考えているようでした。
「今、六の君の入内の準備で、さぞかし左大臣家は忙しいのだろうなぁ」
「ええ。それはもう大忙しでございます」
 紅梅少将は、大げさな身振り手振りを加えながら答えました。
「そうかぁ。そうだろうよ」
 そう帝はつぶやくと、紅梅少将にもっと近くに寄るように手招きをしました。紅梅少将がお側近くまで来ますと、帝は扇を広げました。そして、扇で顔を隠しながら紅梅少将の耳元に顔を近づけました。
「少将よ。今夜、そなたの邸へ案内いたせ」

***

 紅梅少将は「これは困ったことになったなぁ」と思いました。父左大臣と帝との板挟みになってしまった紅梅少将は、「ああ、もうなるようになれ!」と思い、帝を邸内に招き入れました。
「少将よ、朕の心は月のように隈なき。ただ、そなたの妹の五の君の箏は類い希だと聞く。宮中では聞くこと叶わず。まして、式部卿宮の室にでもなってしまったら、もう機会がない。せめて一度はこの耳で聴いておきたかったのだ。無理を言ってすまなかった」
 帝は、渋々案内してくれている紅梅少将に言いました。
 紅梅少将は、もともと今上帝が六の君ではなく、五の君の入内を強く望んでいたことを知っていました。そのため、自分たち貴族の子弟とは違って、気軽に出掛けて気になる女性に会えない帝を、どこか気の毒に思っていました。「これで帝の御心が少しでも晴れれば」と思い、紅梅少将の揺らいでいた心が定まりました。
「帝、こちらでございます」
 紅梅少将が案内するまま、帝は庭の木々や岩などに身を潜めながら、奥の方へ足を進めました。
「あちらの賑やかな方が六の君の住まう西の対ございます。こちらが五の君です」
「もう少し近くまで行けるか?」
「あの卯の花の陰などはいかがでしょうか? この闇の暗さなら、あそこまで行けるかと思います」
「では、行ってみよう」

 帝と紅梅少将は、前栽《せんざい》の卯の花の植え込みまで行き、そこに身を潜めました。
 しばらくすると、こざっぱりとした身なりの女房が二人ほど簀子《すのこ》に出てきました。簀子とは、板敷きの通路とでも言いましょうか、今でいう縁側《えんがわ》のことです。縁側は建物の内側でも外側でもない、そんな空間であります。その簀子に出てきた女房が、格子《こうし》を上げていきます。これは今でいう雨戸に当たるものでしょうか、屋内に雨風が吹き込まないようする板戸であります。蔀《しとみ》と格子は同じものと言われていますが、どちらかと言いますと、格子の方が立派で上等なものです。
「まあ、月がとてもきれい」
 格子を上げた女房の一人が言いました。
「あら、本当に。卯の花や山吹の花が咲く季節でございますが、まだまだ春の名残が」
 もう一人の女房が、先ほどの女房の言葉に同意しました。
「何をそんなに騒いでいるのでしょうか?」
 御簾《みす》の中から、可憐な声がしました。
「はい、五の君様。春の名残の月が、とても美しくって。思わず騒いでしまいました」
「まあ、そうなの。ここからではよく見えないわ」
 可憐な声の持ち主である五の君が言いました。廂《ひさし》の御簾の内側に人影が見えます。どうやら五の君が、月を見ようと端近《はしぢか》に寄ってきたようです。簀子にいた女房たちは、下の格子を片付けるため下がっていきました。

「小少将。小少将はどこかしら?」
 その声を聞いた紅梅少将が、卯の花の植え込みより姿を現し、
「少将なら、ここにおりますよ」
 と答えました。
「まあ、お兄様」
「左大臣家の姫君が夜とはいえ、そんな端近に寄るものではありませんよ」
 そう紅梅少将は言いました。
「まあ、お厳しい。お兄様、どうぞお上がりになってくださいませ」
「今夜は気分がよろしいようですね」
 紅梅少将は、妹の体調を気遣って言いました。
「ええ、この頃は。久しぶりに、お兄様とお話がしとうございます。宮中のことなど、いろいろとお聞かせくださいませ」
「そうですね。こちらはあちらと違って静かですので、少し物騒ですしね」
 五の君と紅梅少将が話している所に、先ほどの女房たちが戻ってきました。
「まあ、少将様!」
 女房たちは紅梅少将の姿を見て、驚きました。
「この御簾を上げれば、中からでも月は見えることでしょう。五の君、戻りなさい」
 そう紅梅少将は五の君に向かって言いますと、「小少将の君、この御簾を上げてくれないかな?」と言いました。
 小少将と呼ばれた女房が、簀子と廂の間の御簾を巻き上げると、紅梅少将は階《はし》を上がり母屋《もや》の前の廂に入りました。そうそう、階とは簀子に上がる階段のことです。
「五の君。実はね、私の友が方違《かたたが》えで、そこまで一緒に来ているのです。やんごとなき身分のお方なので、お上げしてもよろしいでしょうか?」
「まあ、お兄様のお友達が?」
「ええ。あちらは騒がしい上に忙しそうなので、こちらに連れてきてしまいました」
「そうですか。どうぞこちらへお越しくださいますよう、そう仰ってくださいませ」

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