『ウェンディは現実という名の夢を見るか』

著:山田太朗 イラスト:稲垣のん 価格:350円  レーベル:アプリーレ文庫

【冒頭試し読み】
失楽園
1章 お姫様を拾ったよ
2章 陰鬱な日曜日
3章 レイトショーの後に
4章 リアルな嘘 虚構の嘘
5章 今そんなこと言ってる場合じゃないのに
O章 彼方の楽園
7章 ブラックホークダウン
8章 あらためて失われた関係をさがして
9章 トラワレ過ギタ男
10章 誰が今井由香を殺したか
さらに続く彼方
蛇足――彼女について、ひとつふたつの出来事
あとがきにかえて――ある青年の独白

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### 失楽園 ###

0 園田創

立ち止まって鈍色をした空を見つめる。風は冷たく、ぼくの長い前髪を撫でて流れてゆく。今にも泣き出しそうな空模様。隣町の工場から流れてくる煙で晴れた日にもどこかすっきりしないこの空が大嫌いだった。

特に今日は雲が厚く、いつも以上に空気が澱んでいるかのようで陰鬱とした気分になる。
この町で一番大きな道路のくせに、さっきから車の一台も通らない。いつまで経っても、どこまで行っても何も変わらない風景。
ぼくは視線を戻し歩き始めた。このままぼうっと立っていても風邪をひくだけだ。重たい足取りで進むと、バスの停留所が見えた。「停留所」とは名ばかりの小屋に置いてあるベンチに向かう。
腐れかかって、塗装が所々剥げている木製のベンチ。座るとぎしりと嫌な音がした。小屋はこのベンチを置いただけでいっぱいになるような広さ。三方向に木の壁が立てかけられていると言った方がいいかもしれない。雨と多少の風が凌げるだけまだましだろう。バスは今行ったばかりのようだ。次のバスが来るまで後一時間。
もっと早めに学校を出るべきだった。無駄話なんかをしていたから乗り遅れてしまったじゃないか。話の長い級友の屈託のない笑顔を思い、地面を蹴る。いつものことだというのに、今日は苛々しっぱなしだった。腕時計を見ると、十七時前。十七時四十五分に来るバスに乗って一時間。山を越えたところでバスを降り徒歩で二十分。どう考えても家に着くのは十九時を回りそうだ。携帯を取り出し遅くなると姉にメールする。家事を取り仕切る姉の朝が早い為、我が家の夕食は十八時くらいになる。返信はすぐに来た。
『分かった。少し待ってるけど我慢できなかったら先に食べておく』
母を早くに亡くしたせいか、姉は家族揃っての団欒を大事にする。父が都会に単身赴任してからそれが顕著になってきた。「今は二人だけなんだから、夕食までには帰りなさい」それが姉の口癖だった。ぼくの為に彼氏も作らず家事をしてくれる。申し訳ない気持ちになったが、ぼくはまだ高校生だ。友人と遊んだり、どこかへ出かけるにも制約があるので、窮屈さと息苦しさを感じる。
風が強くなってきた。学校指定の制服の上から巻いてある真っ赤なマフラーを顔の半分くらいまでたくし上げる。かなり寒いがこの付近にコンビニやファミレスなんて洒落たものは無い。仕方なくここで時間を潰すことにした。幸い制服の下にはジャージを着ている。寒さは耐えられる程度だ。
鞄から本を取り出し開く。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。何度も読み返しているので擦り切れ、手垢まみれだった。それだけ、ぼくはこの物語に魅せられている。主人公ホールデンのように自由でありたいと思う。彼は、ぼくにとっての自由の象徴のような物だ。
本を読んでいると顔に水気が当たった。灰色の空を見上げると、雪がちらついている。もうそんな季節か。どこまでも続いてそうな一本道の先にある山には既に雪がかかっていた。

この地方の冬は早くて長い。十二月の頭から雪が降り始め、それが三月末まで続く。今日は十一月中旬だったが例年より少し早いと思う程度だ。
ぼくが住むこの町は産業といえるものがほとんどない。大人になると町を出て都会に行き働くのだ。残された大人たちは隣町の工場で働くか、山に入り樹木を切って生活するしかない。それらの仕事すらも近年は減りつつある。過疎化は進み、残されたのは時代に乗り遅れたプライドだけは高い大人と老人ばかりだった。ぼくも早く大人になりこんな所を出て行きたかった。道行く人は皆顔見知りで、プライバシーとは無縁だった。閉塞感しか感じない。

――まるでこの空のように。

山々に囲まれ切り取られたかのようなこの町。
あるいは年中薄暗い澱んだ空気のようなこの空。
この町はどん詰まりだ。
雪が強くなり、小屋にまで入ってきたので読書は諦めた。本を鞄に直し顔を上げるとそこには同じ制服を着た一人の少女が立っていた。本に集中し過ぎていたため、彼女が近づいたのにも気付かなかった。バス停の前でじっと立っている。後ろ姿なので顔は分からないが、栗色をした髪にピンクのメッシュを入れているような派手な生徒は、ぼくの通う学校に一人しかいない。

同じ二年生の今井由香。
口さがのない連中から彼女のありとあらゆる噂を聞いた。
曰く、男を取っ替えひっかえしている。
曰く、蒸発した母親と揃って売春婦である。
曰く、五千円で誰とでも寝る。
曰く、この町の「男」を全て知っている。
曰く、実の父親とも寝ている。
曰く――。

ただの噂なのか、はたまた事実なのかは分からないが、この町で彼女を知らないのは小さな子供かボケが始まった老人達ぐらいだった。今一番の有名人と言ってもいい。町の連中はそんなくだらない噂話くらいでしか盛り上がれないのだ。そんな連中も嫌いだった。面と向かって言えないくせに陰口を叩き偉そうに振舞う。
ただ何となく彼女の後ろ姿を見ていただけだった。何か考えがあった訳ではない。町の連中に反発したかっただけなのかもしれない。噂の真偽を確かめたかっただけと言われても否定はしない。
とにかくぼくは気づくと彼女に声を掛けてしまっていた。
「座らないの? 濡れるよ」
彼女はまるでぼくがたった今現れたとでもいったかのような表情で振り返った。
見開かれた大きなアーモンド型の瞳。色は灰色。カラーコンタクトでも入れているのだろう。高い鼻はツンと上を向いている。薄い唇にはメッシュと同じピンクのルージュを引いている。髪型やメイクでより派手に見えるが、それを抜きにしても美人だと思う。ひょっとしたら例の噂には同姓の嫉妬も含まれているのかも。
「いいよ。本読んでるみたいだし。邪魔したくないから」
冷たい瞳からおよそかけ離れた優しい声音で言う。高くも低くもない心地よい声。
「風邪ひいちゃうよ。本はもう閉じたし座りなよ」
そこで彼女は不承不承といった感じでぼくとは反対側の端に掛けた。
それ以上は話しかける事もなく、ぼくと彼女はただ座っていた。
鞄を漁る振りをして彼女を盗み見る。こちらを全く気にもせず正面を見つめている。横顔を見ると鼻の高さが際立っていた。ピンクの唇から漏れる白い息を見て心臓が跳ねた。噂を聞いているためそういう目で見てしまう。男子も女子も同じモスグリーンのブレザー。その下に着ているクリーム色のセーターでよく分からないが胸の膨らみも標準以上ではありそうだ。
ぼくの視線に気づいたのか、一瞬こちらに視線を向ける。ぼくは慌てて鞄からMP3プレイヤーを取り出した。イヤホンを耳につけようとして彼女が話しかけてくるかもと思いなおし、そのまま上着のポケットに入れる。
結局そんなことはなく、風で小屋がガタガタ鳴る音のみが響き、微妙な空気のまま時間は過ぎバスがやってきた。
ぼくは鞄を持ち立ち上がるが、彼女は微動だにしなかった。流石にこれ以上声を掛けるのは憚られたので、ちらりと見てからバスに乗る。
乗客は老人が四人だけだった。一番前の一人掛けの椅子が空いていたのでそこに座り窓から彼女を見る。目が合うと、彼女は薄い唇を僅かに持ち上げ笑った。何故かドキリとして顔を伏せてしまう。バスが発車し、彼女の姿が見えなくなってようやく顔を上げた。
今思えば、これが全ての始まりだったのかもしれない。
そして必然だったのだろう。
大嫌いだったこの町で過ごす最後の冬。
彼女が生まれた冬。
それは彼女との季節だったように思う。

0 今井由香

十一歳の誕生日だった。
見知らぬ男を連れて帰ってきて、二言ほど話し父だけが出て行った。男は酒臭い息を吐きながら私の唇を貪ってきた。私は驚き、恐怖に泣き叫んだが、その度に男に殴られた。
「黙っていりゃ優しくしてやる」
そう言った男の言うことを信じ、私は男の言うがまま服を脱いだ。下着のみになると、男の眼の色が変わった。
まるで棒っきれのような私の身体を舐めまわすように見ると、男の息が更に荒くなった。
震えながらも冷静な自分がどこかにいた。

――ああ、これから私はレイプされるんだな。

セックスの意味も意義もぼんやりとだが分かっていた。いつか素敵な王子様が私を迎えに来て、お花畑の中にある天蓋付きのベッドで結ばれるものだと、年齢相応な夢を信じていた私が現実を知った瞬間でもあった。
男はズボンを脱ぎ、怒張したペニスを私の顔に近づける。初めて見た男性器はとても大きく、ごつごつしていた。禍々しい悪魔のシンボルのように思えてまた私は泣いた。殴られた。
「しゃぶれ」
男はますます息が荒くなり、興奮しきった声で言う。意味が解らず震えていると私の鼻を塞ぎ、口を無理やり開きペニスを突っ込んできた。饐えたような匂いがして吐きそうになる。歯を立てるとまた殴られた。
怖かったが、このまま大人しくしていれば終わると思い、男のなすがままにされていた。やがて男の動きが早くなってきた。男がうめくと、口の中に生臭い感触が広がる。力の抜けたペニスを男が抜くと、私は吐いた。精液と吐瀉物が混じった匂いが広がる。
「きったねぇな。後で片付けとけよ」と言いながらもぎらついた目で私を見る。この匂いで興奮したようだった。たった今射精したばかりのペニスが再び持ち上がるのを見て、私は首を何度も振る。
今度は「横になれ」と指示してきた。早く終わって欲しい一心で私は指示に従う。
男は私の股を開くと、下着をずらし前戯もなく貫いてきた。
あまりの痛みに頭に火花が飛び、声も出ない。
口は金魚のようにパクパクと開くだけだった。出てくるのは僅かながらの呼吸音と男の精液と吐瀉物が混じった涎だけ。下半身が焼けるように熱くなったが、男は構わず腰を振り続けた。
声を出したら殴られると思い、唇を噛み締める。痛みはじわじわと広がり、男の動きに合わせて息が漏れた。それを「感じている」と錯覚したのだろう。男の動きはますます早くなり、やがて中で果てた。初潮は始まっていたので妊娠する恐れもあったが、それよりも終わったことに対する安堵感が勝った。男は私の顔を一瞥し「淫売のガキは淫売か」と吐き捨て出て行った。
男が出て行った後、私は泣き続けた。息をするのも苦しくなるほどしゃくり上げた。本気で泣く時は声も出ないものなのだとこの時初めて知った。
暫くすると父が帰ってきた。いつも事あるごとに殴ってきた父が優しく、「痛かっただろう。一緒に風呂に入ろう。父さんが背中を流してやる」と言ったのでまた泣いた。風呂に入り、父が身体を洗ってくれている間も私は泣き続けた。恐怖と安堵がない交ぜになって、ただ父の身体にしがみついた。ようやく落ち着くと父は今まで見たことの無い優しい笑顔で「先に上がってなさい。父さんはもう少し湯船に浸かっていくから」と言った。
父さんが久しぶりに優しくしてくれた、それだけで私も笑顔になり、先ほど吐いたものを片付ける為に部屋に戻った。やがてその笑顔は凍りつくことになる。
部屋には「順番待ち」をしていた男達が三人いたので。
私は道の真ん中にへたりこんだ。
車道とはいえ田舎のだだっ広い道だ。車は通らないし、通っても轢かれる事はないだろう。
今日みたいな鉛色をした空を見ると、思い出したくない事まで鮮明に思い出して吐き気が止まらなくなる。俯いていると前髪が顔にかかった。この派手な栗色も父の指示だった。地味な黒髪よりも客が呼べるからだという。ピンクのメッシュを入れたのはせめてもの抵抗だった。父は鼻白んだが特に何もいう事はなかった。私が五歳の時に家を出ていき、それ以来姿を見ていない、そんな母親唯一の記憶がこの桜色だった。母はピンクのルージュを良く引いていた。「これは桜の色なのよ。私の故郷はとっても桜が綺麗なの。いつか一緒に見に行きましょうね」そう言って笑う母。それは叶わなかったが、その頃は優しかった父と、母と私の家族だった頃の楽しい記憶として残っている。
だが、それ以外の空も、町も、ここから見える景色も大嫌いだった。私を閉じ込める牢獄のよう。
いや、違うか。
私は特に縛られてなんていない。自分の意思でこの町に留まり続けているだけ。
きっとこれが、運命とかいうやつなのだろう。
抗う術は持っていない。私は父がいないと何も出来ない子供だ。例え大人になったとしても変わらないと思う。他のやり方を知らない。私は誰かに依存して生きていくしかない、そんな弱い人間なんだと理解し、絶望したのはいつだったか。
町の連中が色々と陰口を叩いているのも知っている。
事実でないことも含まれていたが、概ね正しい。私は淫売だ。若い男と消えた私の母親も淫売だ。その上父親はろくでなし。こんな私がここから逃げ出したいだなんて無理な話だ。神様が、もし万が一いたとしても私だけは救わないだろう。私はこのままこの町で身体を売り生活し、そして死んでゆく。逃げることが出来ないのであれば、せめて守るしかない。自分を守れるのは自分だけ。これがこの数年で私が学んだことだった。
その時、クラクションが鳴った。なんとか身体を道の端に寄せる。このまま座り込みたかったが流石に年頃の娘としてそれはできない。何より、町の連中に噂話を提供することになってしまう。
自制心を奮い立たせなんとか立ち上がる。長い一本道の先にポツンと立っている建物が見えた。二百メートルほど先にあるバス停だ。そこにベンチがある。

ふらつく足取りでどうにかたどり着いた。時刻表で確認したところバスは行ってしまったようだ。先ほどクラクションを鳴らしてきた車がそうだったのだろう。次のバスまで一時間。私の家は、彼方に見える山を越えたところにある。歩いて帰れる距離じゃない。かなり冷えるが仕方ない、座って待っていよう。
待合室とは名ばかりの建物に入ろうとしたら先客がいた。軋むベンチに腰掛け本を読んでいる。本を立てて読んでいたので手の隙間から子供の落書きのような表紙が見えた。
私と同じ制服を着ている。噂も陰口も慣れてはいたが、今の気分で不躾な視線に耐えれるとは思えない。仕方なく立っていることにした。
ちら、と先客を盗み見る。濃い緑色をした我が高校の制服には到底合わない、派手な色合いの真っ赤なマフラーに顔半分を埋めていた。見事なクリスマスカラーだ。文字を追っている茶色の瞳はせわしなく動いている。長い睫毛がまばたきの度に揺れていた。肩くらいあるサラサラとした黒髪が風に流れて、その都度鬱陶しそうに手で払っていた。気になるくらいだったら切ればいいのに。
先ほどから降り続けていた雪が強くなってきた。一際強い風が吹いた瞬間、声が聞こえた。
「座らないの? 濡れるよ」
私はびっくりして振り返った。先客は本を畳んで私を見つめていた。
この町に欲求を満たす以外の目的で私に声を掛けてきた人間はずいぶん久しぶりだ。こんなところ誰かに見られたらどうするつもりなのだろう? この狭い町ではたちまち噂になるというのに。
「いいよ。本読んでるみたいだし。邪魔したくないから」
「風邪ひいちゃうよ。本はもう閉じたし座りなよ」
そう言って目元が下がった。口は見えないが笑ったのだろう。
ここで断ったらこの人が立ち上がりそうな勢いだった。それに雪も強くなってきた。仕方なく端に腰掛ける。

【続きは製品版でお楽しみください】

尚、この作品には同人誌版がございます(SSはついておりません)
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