『クロッシング・ラブ』

著:高槻弘壱 価格:400円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】

目次

クロッシング・ラブ

「お疲れ様です。お先に失礼します」
 そう告げると、晴香は勢いよく自分の席から立ち上がった。
「小泉さん、ちょっと」
 経理部長の和田が晴香を呼び止めた。
「何でしょうか?」
「二か所も仕訳の間違えがあったよ」
 和田の顔は険しい。
「すみません」
 晴香は素直に謝った。
「わかってると思うけど、残業していってね。君はもうベテラン社員なんだからミスは許されないんだよ」
 和田は声音を下げながらも厳しい口調だ。
「わかりました」
 晴香は自分の席に戻るとすぐにパソコンの電源を入れた。
 晴香は会社帰りに江戸川橋にある中華店に立ち寄るのが日課だ。店の名前は新雅という。新雅の焼きそばを食べることは晴香にとって一日の自分へのご褒美だった。
 好んで食べる焼きそばはソースで味付けしたものでなく、塩味のものだ。メニューでは焼きそばとソース焼きそばがある。ただの焼きそばとはどんなものなのか、初めて注文したときには、そんな興味も手伝ってのことだった。店はカウンターが厨房をぐるりと囲んでおり、店構えとしては小さく、地元に住む客を相手にこぢんまりとした商売を営んでいた。もっとも、平日の昼食時には近所の会社のサラリーマンでごった返し、順番待ちをしなければならないほど、店は繁盛していた。
 晴香はビールを飲みながら、焼きそばが作られていく過程を眺めているのが好きだった。店のおやじさんの焼きそばを作る際のリズミカルなフライパンの動きを眺めながら、ビールを飲んでいると、その日に会社で上司から叱られたこともすぐに忘れてしまった。おやじさんは重たそうなフライパンをいともたやすく操っている。その姿が晴香には気持ち良かった。
「焼きそば、お待たせいたしました」
 おやじさんが、カウンターに熱そうな中華スープと湯気の立ち上る焼きそばの皿を置いた。晴香はグラスに残っていたビールを飲み干すと、中華スープを一口、蓮華ですすった。そして、皿の上にこんもりと盛られた焼きそばに箸を伸ばす。キャベツ、もやし、にんじんなどのたっぷりの野菜と豚肉が具材で、さっぱりとした塩加減が晴香の食欲をそそった。
 焼きそばを食べながらビールをぐいぐい飲む。酔いがまわってくると、会社の同僚の女性社員たちの噂話がふっと頭をよぎった。
「営業二課の新井さん、寿退社だってさ。よく新井さんみたいな地味な女が男を捕まえられたわよね」
「色仕掛けで落としたんじゃないの」
「新井さん、スタイルだって良くないし、顔だってきれいじゃないのに」
「じゃあ、いきなり男を自分の部屋に引っ張り込んだとか」
「案外、あれでも男ウケが良いのかな」
 この先、自分は理想の結婚相手とめぐり合うことができるのだろうかと、晴香は思いを馳せた。社内でめぼしい男はみんな結婚してしまった。百年に一度と言われた不況で、晴香が気にかけていた残りわずかだった独身の男性社員は転職したり、リストラにあってしまったり、もう、目の前にはこれと思える男がいなかった。
 どこに出会いを求めれば良いのだろう。全く宛てがない。
 このまま自分は二十代後半を迎えてしまうのか。そして、三十代を迎えても、じっと一人仕事に打ち込むことだけが唯一の救いになってしまうのか。まさか、一生一人で過ごすことになってしまうのでは。そんな焦りもあった。よそう、ビールがまずくなる。晴香は焼きそばをたいらげ、ビールを喉に流し込んだ。
 江戸川橋駅から歩いて十分のアパートに晴香は暮らしていた。八畳の部屋と、キッチンが別になっていて、風呂もユニットバスではなく、トイレとは別々になっている。清潔好きな晴香にはユニットバスは我慢できず、不動産屋で部屋を探すときの条件も、風呂とトイレが別々ということを第一にしていた。ほろ酔いで湯船に浸かっていたら、寿退社の噂話が再び頭をよぎった。会社ってつまらないな。汗でぬれた額をタオルで拭いながらそう思った。他人の幸せなんてどうでも良い。その噂話で喜ぶ女性社員たちの存在も自分とはかけ離れている。もう、彼女たちにはそんなことしか楽しみがないのだろう。でも、自分は違う。これからきっと好きな男を見つけ出して結婚して幸せになってみせる。そうだ、彼女たちの噂の的になるんだ。あたしはみんなとは違う。晴香は自分の中にふつふつと熱いものが湧き上がるのを感じた。
 晴香は毎日、パソコンの画面を睨みながら、キーボードを叩く。ミスは許されない仕事だけに、勤務中は仕事に没頭した。しかし、仕事が終わってしまうと、特に行きたいところも見つからず、新雅に足が自然と向いた。おやじさんが料理している姿を眺めることで疲れは癒されるが、それだけで一日が終わってしまうことを晴香は寂しく思った。
 店に入ると、カウンターには数人のスーツ姿のサラリーマンが陣取っていた。店の看板メニューの餃子をつまみにビールを飲んでいる。皆一様に美味そうに餃子を頬張っていた。今日はあたしも餃子とチャーハンにしようかな。晴香はまずおやじさんにビールを注文した。おやじさんがカウンター越しに「今夜も焼きそばにしますか」と聞いてきた。
 晴香は一瞬ためらいながらも
「餃子とチャーハンをお願いします」
 と答えた。そのやり取りを聞いていたサラリーマンのうちの一人が
「おやじさん、焼きそばってそんなにうまいの?」
 と問いかけた。
「ええ。焼きそばもうちの人気メニューですよ。こちらのお客さんはいつも焼きそばを注文されてます」
「そう。じゃあ、こっちも焼きそば、大盛りで頼むよ」
 サラリーマンはそう言いながらビールをあおった。そして、晴香のことをちらちらと横目で眺めてきた。

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