『デザイア〜君に焦がれた僕~』

著:高槻弘壱 価格:300円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】

目次

デザイア~君に焦がれた僕~

 二十世紀も既に終わりを迎えようとしている。ミレニアムの五月の清々しさを感じる晴れた日に、僕は部活での最後の練習を終えた。部長を任されていたけれど、受験勉強を優先するため、後輩に円満に引き継げた。皆とはこれまで卓球を通して互いに良いコミュニケーションもとれていたと思う。その証拠に部員の誰もが僕に頑張ってください、と声をかけてくれた。
 着替えるために自分の教室に戻った。ドアを開くと何かが燃えている臭いがした。白い煙が立ち込めている。何だろうと思い、教室の中を見回したが誰かがいる気配は無かった。とにかく窓を開けて換気しなければと思い、壁際に向かって歩きかけたら、突然笑い声が聞こえた。
「誰だよ? 誰かいるのか」
 僕の声は教室の中で大きく響いた。笑い声が止むと、教壇の後から一人の女子生徒が姿を現した。
「夏目かよ? 何をやっていたんだよ」
 僕はびっくりしたが少し安心した。クラスメートの夏目千草だった。
「どうせばれるから言っちゃうけど、煙草を吸ってたの」
 夏目はゆっくりと僕に近づいてきた。夏目の指には煙草の吸殻が挟まっていた。
「お前、煙草なんか吸っているのか。先生にばれたらどうするんだよ?」
「どうせ、今年で卒業じゃん。今さら教師なんて関係ないよ」
 夏目は余裕の笑みを浮かべている。
「煙草って身体に悪いんだろ? 止めた方が良いんじゃないのか」
「そんな固いことばっかり言ってるから高橋は女の子にもてないんだよ。あんたも吸ってみる? 一本あげるよ」
 夏目が煙草の箱を差し出してきた。
「僕はいらないよ」
 慌てて右手を振った。
「あんた、部活は卓球だっけ? 暗いね。今時、そんなの流行らないよ。サッカーとか野球とかテニスとかバスケとかもっとかっこいいのをやればよかったのにね」
 そう言いながら夏目は新しい煙草に火をつけると煙を吸い込んだ。
「余計な御世話だよ。僕は卓球が好きだからやっていたんだ」
「でも、オリンピックとかに出られるほど上手い訳じゃないんだろ?」
「当たり前だよ。そんなに上手かったらスカウトが来るよ」
「だろうね。高橋は大学に行くの?」
「ああ、そのつもりだ。浪人するかもしれないけど」
「大学に行ってその後は?」
「まだ将来のことはわからないけれど、普通に就職できればそれで良いって思っている。そういう夏目はどうするんだよ?」
「あたしはここを卒業したらロックバンドで唄うの」
「ふーん。かっこいいけど何だか大変そうだな」
「あんた、ジャニス・ジョプリンって知ってる?」
「知らないな。何だよ、それ?」
「いいや。あんたに聞いたあたしがバカだった」
 夏目は薄笑いを浮かべながら、煙を吐き出した。
「煙草のこと教師にちくるかい? ちくりたかったら、ちくっても構わないよ」
「そんなことはしないよ。でも健康のことを考えたら煙草は止めた方が良いぞ」
 僕は汗ばんでいるジャージの上着を脱いだ。ジャージの下のTシャツは汗でびっしょり濡れている。
「着替えたいんだけど」
「わかったよ。じゃあね、高橋」
 夏目はそう言うと、煙草を携帯用の灰皿で揉み消し、教室から出て行った。
 僕は窓を開けて換気した。煙が外に向かってさーっと流れて行く。その煙の流れは見ていると何だか心地良かった。
 家に帰ると真っ直ぐ兄の部屋に向かった。兄は机の上のパソコンに向かっていた。ディスプレイにはニュースが映し出されている。ヘッドホーンで何か音楽でも聴いているのか兄は僕に気付かなかった。
「兄ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 兄の肩を軽く叩いた。兄は振り向きながら、ヘッドホーンを外した。
「何だよ」
「ジャニス・ジョプリンって知ってる?」
「アメリカのロック歌手だよ。珍しいな。薫が音楽に関心を持つなんて」
「いや、別に関心があるとかってわけじゃないんだけど。その人、有名なの?」
「ああ。伝説の人だよ。もう、とっくに死んだけどな。たしか二十七歳で死んだよ」
「ふーん。兄ちゃんはその人のCDを持ってる?」
「うん。ちょっと待ってろ。ああ、これだ」
 兄が一枚のCDを取り出した。タイトルは「パール」だった。
 僕は自分の部屋で早速そのCDをかけてみた。曲調は確かにロックだ。だが、日本のロックバンドの音楽とはちょっと違う感じがした。何だか今時の音楽ではないような気がする。だが、ハスキーなヴォーカルの声には魅了された。そして、ジャニス・ジョプリンの音楽には退廃的なものを感じた。
 胡坐をかいて音楽を聴いていたら、ふと夏目のことが頭に浮かんできた。夏目は普段は無口で、教室で誰かと喋っているのをあまり見かけなかった。休み時間も誰かと仲良くしている光景を見たことが無い。夏目はスラっとしていてスタイルも良いし、顔だって綺麗だと思う。目が涼しげな二重で、男子の間では人気がある気もする。でも、今日は煙草を吸っていた。どこか大人びた雰囲気を漂わせていたが、まさか煙草を吸っているとは思ってもみなかった。未成年で煙草を吸うなんて立派な不良じゃないか。
 僕は再び音楽に聴き入った。流れてくる退廃的なムードと今日の夏目のイメージが変に符合した。今まであまり意識したことは無かったけれど、夏目の本当の姿をクラスで自分だけが知っていると思うと、ちょっとした優越感を覚えた。
 リビングに行くと、母が台所で何か料理していた。フライパンで何かを炒めていた。僕はテレビのスイッチを入れ、椅子に腰かけた。
「薫、受験勉強は捗ってるのかい?」
 母がテーブルに惣菜を並べながら僕をじっと見つめてきた。
「ちゃんと勉強してるよ」
「頼むからあんたは修一みたいにならないでおくれよ。我が家は二人もニートの面倒をみられるほど余裕がないんだからね」
 そう言うと母は大きくため息をついた。
「わかってるよ。ちゃんと大学には行くから」
「あんただけでもきちんと良い会社に就職してくれないと」
「わかってるって」
「本当に修一は朝から晩まで部屋に閉じこもりっきりでご飯もろくに食べないんだから。何を考えているのかさっぱりわからないよ。お父さんは仕事で忙しいって言ってばかりで、全然相談にも乗ってくれないし……」
「きちんと進学して、ちゃんとした会社にも就職するから」
「修一も大学を卒業するまでは真面目な子だったんだけどねえ」
「就職氷河期だったんだから、兄ちゃんばっかり責めるのはかわいそうだよ」
 部屋に戻り机に向かったが、とても勉強をする気分にはなれなかった。学校では特に宿題もないしレポートの提出も迫られていない。担任も含め、教師たちは皆一様に受験についての心構えを話していた。とにかく頑張って少しでも良い大学に入学することが至上命令になっていた。ただ、僕には受験が頭の中で具体化されていなかった。これまでに何度も模試は受けて、受験会場の雰囲気はわかっていたけれど、実際に受験して合格し、大学生として生活している自分を思い浮かべずにいた。
 勉強しなければいけないことはわかっている。でも、何をどう勉強すれば良いのかも思いつかない。自分の苦手な教科から手をつければ良いのだろうとは思うけれど、その気にさえなれなかった。
 僕は再びジャニス・ジョプリンのCDをかけた。頭の中に浮かんでくるのは夏目のことばかりだ。夏目の顔が頭の中に浮かんできては消えていった。高校を卒業したらロックバンドで唄うって言っていた。でも、プロの歌手になる気なのだろうか。確かに夏目は見た目は綺麗だし可愛いとも思う。歌は上手いのだろうか。歌が上手くなければ歌手になんてなりたいと思わないだろう。そう言えば、僕は夏目の歌声を聴いた覚えがない。夏目の歌声もこのジャニス・ジョプリンのような歌声なのだろうか。
 CDを一通り聴き終えた僕は兄の部屋を訪ねた。兄は相変わらずパソコンの画面を眺めていた。

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