『今様あやかし恋奇譚 』 著:忍足あすか イラスト:稲垣のん 価格:400円 レーベル:フリージア文庫

【冒頭試し読み】

目次

花筏の頃
真夏の氷点下
ひとりでいるには遠すぎて
福の神

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### 花筏の頃 ###

 その音は、『ぱちん』でも『ぺちん』でも『ぱん』でもなく、
 ――ばしぃっ。
 と、超重量級だった。
 {鳥飼|とりかい}{真打|しんうち}は、大の男にしては情けなくもよろめく。あまりにも不意打ちだったから、完全に無防備だったのだ。
 {和美|かずみ}が、だんと派手な音を立てて、ダイニングテーブルに合鍵を叩きつけた。それから、足音も高く部屋を出ていく。捨て台詞は、
「浮気者との関係はここで終わりよ!」
 とんでもねえ台詞だなと思う。浮気者は和美の方なのだ。
 幸福にも従業員にやさしい会社に勤めている真打が、少し長めの有給休暇をもらっていた間、別の会社に勤めている和美も有休をもらっていた。
 まったく知らなかった。彼女は、恋人である真打に、有給休暇の『ゆ』の字も出さなかった。
 ――おまえら、付き合ってなかったっけ?
 という友人からの電話がなければ、今でも気づかないままの大馬鹿者だっただろう。
 和美は、今年昇進したバリバリのエリート氏と休みを合わせ、グアムだかサイパンだかハワイだかに旅行に行っていたのだ。
 それを聞いたとき、真打はすべての気が臍から抜け出るような気がした。
 和美は美しく、頭の回転も速くて、趣味も持っており、会話に困ることもなく、――ついでに、大きな声ではいえないが、なかなかの床上手だった。恋人がいても引く手数多の存在だろうことはよくわかる。
 だからといって、本当にその引く手に引かれてどうするのか。
 和美と疎遠になったと感じたことはない。週に一度は必ず会った。社会人であることを考えれば、十分な頻度ではないだろうか。彼女にとっては物足りなかったということか。
 ――いや、違う。
 問題はやはりそこではない。
 和美は真打を裏切っていた。
 何も気づいていない男だと嘲っていたのだ。
 だから、自分を棚に上げて「浮気者!」などという言葉が出たのだろう。自分が浮気するのはかまわないが、相手に浮気されるのは我慢がならないのだ。プライドが変な方向に高い。
「真打様、大丈夫でございますか?」
 玄関にへたり込んだまま動かなくなってしまった真打を見かねてか、部屋の奥から、{齢|とし}の頃十五、六の娘が駆け寄ってきた。
 ――コレを見て、なんで浮気だと思うんだ……。
 白地に桃色の花模様のきもの。衣紋の抜きが少々大胆ではあるものの、どう見ても小娘。しかも、それだけではない。歴史に疎く、小説も読まなければドラマも見ない真打は、なんと呼ぶのかわからないが、髪型がいわゆる日本髪だった。確か、髪型は、年齢だったか、階級だったか、既婚か未婚かだったか、とにかく区別があったはずだ。小娘の髪型に派手さや華やかさは感じられないから、恐らくは町人と見ていいだろう。
 たぶん。
 それにしても、髪型なんかはまったくわからないのに、何故『衣紋の抜きが少々大胆』などと思うのだろうか。衣紋などという単語は、白菊に会うまで知りもしなかった。それだけならいいのだが、この単語、真打は彼女に教えられたわけではない。白菊を見て、なんとなく『衣紋の抜きが少々大胆』だと、ほとんど唐突に思ったのだ。我がことながら実に謎だった。
 それはともかく――
 ――こんないで立ちのものを見て、何故「きゃあ、誰?」ではなく、「浮気者!」となるのか。
 恐らく、和美はそろそろ真打との関係を終わらせたかったのだ。そこに、ちょうどよく女がいた。女というには齢が足りない気がするが、とにかく女がいた。
 こんな妙な捨てられ方があっていいものだろうかと思うものの、現実になってしまった以上、認めないわけにはいかない。
「全然大丈夫じゃない」
 むくれて言い捨てると、小娘が顔を蒼くする。
「まあ、大変! 頬を冷やしましょう。真っ赤でございます」
「そんなことしてくれなくていいから、そろそろ出ていってくれないか」
「いやでございます」
 小娘、どうあっても出ていく気がないらしい。
 小娘が真打のもとに現れたのは、{花筏|はないかだ}の頃だった。アパート沿いの川は両岸に桜がずらりと並んでいて、春は目にも鮮やかだ。
 その日、真打は自室の窓から桜を眺めていた。といっても、ほとんど散ってしまっている。ただ、雨がなかったせいか、川面に凋落した花びらはどこまでいってもきれいで、薄紅色をしていた。
 ワンカップ片手に窓辺に腰かけている身に、少しばかり水を含んだ風が吹いてきた。これは、久方ぶりに雨が降るかもしれない。そう思ったとき、
 ――ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。
 連続三回。
 昨今のピンポンダッシュは激しいなと思いながら扉を開けたら、
「今日からお世話になります」
 白い肌に赤い頬、真打の恋愛対象年齢には届いていなかったが、それでもはっとするほど美しい娘が立っていた。

「夕餉は{白菊|しらぎく}にお任せくださいませ」
 真打の頬に濡れ手拭いを押しつけると、小娘――白菊は上機嫌に立ち上がった。真打の役に立てたと思っているのだ。
 しかし悔しい、この白菊、料理は本当にうまい。
 夕餉と聞いて、非常に正直にできている真打の腹がぐうと鳴く。
「なあ、もうこの質問もいい加減飽きたんだが、おまえは一体なんなんだ。いつまでいるつもりだ? 頼むから出ていってくれ。妙な噂が立つ前に」
 妙な噂だけは御免被る。時代劇に出てくる娘など現代日本の日常においてはコスプレ以外のなにものでもないし、そんなものと生活しているとばれるのも嫌だ。
 ベッドに腰かけた真打が苛々と頭を掻きまわすのにも一向に臆さず、質問も無視して、紺の{襷|たすき}をかけた白菊は
「今日の夕餉は{鯵|あじ}のふらいでございます」
 などとぬかす。
「わんかっぷも買ってございますよ」
「……その格好で買い物に行ったのか?」
 勘弁してくれ。
 と思ったが、白菊は愛らしく笑った。
「まさか。人ごみに紛れました」
 まったく回答になっていない。
「金はどうした?」
「お稲荷様は慈悲深いのでございます」
「賽銭泥棒したのか!」
 思わず大声を上げてしまった。さすがの白菊も驚いたらしい、びくりと肩を震わせる。
「……いや、悪い。大声出して……」
 遠くから{鴉|からす}の鳴き声が聞こえる。夕暮れた川面は橙色に光っていた。もうすぐ夏が来る。葉桜も通り過ぎた桜の枝が、今はひととき休んでいた。
 開け放した窓から、風がゆるりと入ってくる。もう冷たさは感じない。
「お賽銭を泥棒するなど、罰当たりなことはいたしません。お稲荷様にお願いしたのでございます」
 桃の実のような初々しい唇を噛んで俯くので、真打は慌てた。
「それならいい」
 どういいのかはわからないが。
 人ごみに紛れたと言い、稲荷神に慈悲を乞うたと言う。まったく、真打がいない間、この白菊とか名乗った娘はどのように過ごしているのだろう。
「真打様、お風呂も沸かしてございますよ。お食事の前に湯浴みされますか?」
 叱られずに済んだと思ったか、白菊はけろりと花の{顔|かんばせ}を綻ばせた。ここまで現金だと、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
「……風呂をもらう」
「はい。ではそれまでに支度を済ませておきます」
 なんだか{夫婦|めおと}のようでございますね、真打様、といううれしそうな声は、思いきり無視した。

 ――ほんとう、なんなんだろうな、こいつは……。
 ぴたりと戸の閉まった押入れをじっと睨みながら考える。
 白菊、寝るときは押入れに入るのだ。しかも、
「絶対に覗かないでくださいませ」
 鶴の恩返しそのままの台詞だ。
 押入れの中で何ができるとも思わないし、言い添えれば真打自身、ここ最近で何か動物を助けた記憶もまったくない。白菊は芯から謎の存在なのだった。
 まず、真打は彼女が風呂に入っているのを見たことがない。「一番風呂は真打様のものでございます」などと奥ゆかしいことを言ってはいるものの、ではそのあとに入浴しているかというと、どうもそうは思えないのだ。
 そのわりに、彼女はいつも清潔だった。
 白い肌は輝くようだし、きれいに結われた髪は{鬢|びん}のほつれひとつない。ごくごく小さな赤い珊瑚の簪を気にする指先もまた美しく、爪は磨かれたようにつるりと光っている。
 とりあえず人間ではない。
 まあ、よくあることだ。
 でも、ここまで懐かれたのははじめてだった。
 大抵、一度や二度の遣り取りで終わるのだが、白菊は一向に真打の前から姿を消そうとしない。
 朝起きると既に湯気の立つ朝食が出来上がっている。弁当まで持たせてくれる。風呂も沸かしておいてくれるし、掃除までしてくれている。
 なるほど、雪女のようでもある。
 ――いやいや、子どもはつくらない。つくらないぞ。
 こんな存在と子をなしてしまうなど、後が恐ろしい。その思いをぎゅっと胸に抱きしめて、真打はベッドに潜り込んだ。

「白菊、今日は留守にしてくれ」
「凍えろとおっしゃるのですか?」
 大きな{眼|まなこ}に涙をいっぱいに溜めて哀しげに問われ、真打はまたも慌てた。
 こんな厄介者、と思っているわりに、真打は何故か白菊を無碍に扱えないでいた。なんだかとても気になるのだ。笑っているところを見れば素直に「かわいい」と思うし、泣き出しそうな顔を見てしまうと罪悪感を覚えてしまう。たとえ真打に非がないことでも、身の置きどころのない気持ちになってしまうのだ。
 季節は巡って、また春が来ていた。つまり、もう一年近く白菊は真打のアパートの一室で寝泊まりしていることになる。
 真打は一度も約束を破っていなかった。彼女がもう寝入っているだろう真夜中にも、こっそり押入れを開けるなどということをしたことはない。
 白菊は、何故かはわからないにしても、真打によく尽くしてくれる。愛情をもって接してくれている。その『何故かわからない』が心底ひっかかるところでもあるのだが、やはりどうしても心当たりはなかった。
「まだ夜は寒うございます」
「カプセルホテルを借りてやるから。案内もする。人ごみに紛れることはできるんだろ?」
「……真打様、白菊をお嫌いになってしまったのでございますか?」
 好きだと言ったことはただの一度もない。
 が、その一言を必死で飲み込む。
 どこで調達してきたのだか、古い酒屋の前掛けを握りしめる拳が頼りなく震えている。俯いているから顔は見えないが、恐らく涙は零れる半歩手前だろう。
「そうじゃない。今夜、同僚がうちに飲みに来るんだよ。新入り――後輩連れて。だから、おまえがいると――その、なんというか」
「ああ、説明に困ってしまう、ということでございますね」
「お、おお、おう。そうだ」
 自分が現代において異端に映るという自覚はあるらしい。
 嫌われていないのだとわかった白菊は、案の定ころりと機嫌を直した。
「わかりました。ですが、その――かぷ、なんとやらはいやでございます。知らぬ場所では寝られません。縄張りもございますし」
「な、縄張り?」
「押入れの中でおとなにしております。ですので――」
 白菊は、ほんのりと頬を染めて、ちらりと真打を上目遣いに見上げた。
 

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