『先見の薬師と、火灯しびとの水晶(後編)』

著:忍足あすか イラスト:風街いと 価格:400円  レーベル:ペリドット文庫

※前後編の後編です。前編はです。

【冒頭試し読み】
目次

第六章 そのものの名は
第七章 火花散る
第八章 偶然と必然の出会い
第九章 偶然と必然のすれ違い
第十章 錬金術
第十一章 失わせるもの
終章

===

 第六章 そのものの名は

 ――チルカ、あの火を忘れないようにしなさい。あれはおまえが起こした火だよ。
 オーヴス師の声は、古い大きな時計の振り子が揺れる音に似ている。
 ――失われたものを忘れないように。なくなってしまえと思った心を忘れないように、これを持っていなさい。
 ――使えるのは一度だけ。
 宿屋から逃げるような事態にはならず、おかげで今夜もベッドにありつけている。
 ベッドの中で、チルカはもぞもぞと胸もとを探った。首に掛けている紐を引っ張り出すと、小さな袋が出てくる。子どもがおもちゃの硬貨で遊ぶときに使うような、小さな巾着だ。
 アーネストのもとへ行きなさいと言われたときにもらった。なんの飾りもない、刺繍もされていない、ただの皮の袋だ。
 夏の日。白い窓枠のむこうはひどく眩しくて、室内が暗かった。庭の{楡|にれ}の木が陰をつくっていた。
 オーヴス師はフラム家における教育係の中でも年長だ。髪も蓄えた髭も白いが、それが老いから来るものなのかはわからない。フラム家は色素が薄く、髪は銀や灰色が多い。ほとんど白に近い者もいるから、色だけでは判断がつきにくいのだ。
 物差しになりそうなものといえば、年輪を重ねてきた者だけにある、時の愛撫の跡。目尻やくちもと、手や首の{皺|しわ}くらいのものだった。
 北の国。空気が乾いているから、真夏でも日陰であれば涼しい生家。
 懐かしいという気持ちは{朧|おぼろ}だ。
 ――自分の手の中にあるものを、よく考えなさい。
 オーヴス師から手渡された、一度だけ使えるお守り。
 握りしめて、深く細く息をつく。
 邪魔にならないようにすると言ってついてきたけれど、メルディはどう思っているだろう。迷惑になっていないだろうか。
 チッフをつくることしかできない。人形劇は自信がなかった。そんなことを言っている場合ではないとわかってはいても。
 劇の途中でふつっと崩れかけた土人形を、さりげなく庇ってくれたアーネストはもういない。
 ――役立たずだ。出来損ない。
 メルディがいない間、宿の皿洗いや料理の仕込み、着火と火の番でスープとパンを分けてもらう。部屋の鍵をかけて、その鍵をチルカにしっかり渡してくれる、心あるひとたちばかりだ。
 メルディはあちらこちらで、ほんの少しずつ、本人もそれとわからないくらいの、けれどどこかで決定的な助けになる幸運に恵まれている。
 ――腕が痛い。
 メルディには黙っているけれど、彼がいない間、少し無理をしてチッフをつくっている。発火の模様は得意だから、微々たる差ではあれ早く描ける。その差から生まれる僅かな数を積み重ねて、追加で納品しているのだ。大急ぎで切って、貼り合わせて分厚くし、やすりをかけてきれいにする。
 腕が痛いと気がついたら、メルディは心配するだろう。
 どうしたら上手く役に立って、彼の負担を減らせるのだろう。
 ベッドとベッドの間に置いてある荷物の中に、人形劇用の箱がある。
 試されているのは勇気だと、もうとっくにわかっていた。
「チルカ」
 ひっ、と小さく跳び上がる。ぱっと顔を上げると、枕に肘をついて頭を支えているメルディと目が合った。
 不思議なものだ。
 こんなに暗いのに、視線がきちんと絡んでいるのがわかるなんて。
「びっくりさせてごめん。眠れない?」
「少し違う。考えごとしてた」
 どうやったら役に立てるか考えていた、とは言えない。
 メルディは静かに笑った。
 その声がとても好きだ。
 チルカは、メルディが静かに笑うときの声が好きだった。やわらかくて、とてもやさしい。不思議に安らげる。
 意味を持った言葉ではないのに、笑声などただの音のようなものなのに、いつも魔法の呪文のように聞こえた。ひとを幸福にさせる呪文。
 泣きたくなるほどなのだから、メルディは自分よりもよほど魔法使いだと思う。
「何を持ってるのか訊いてもいい? ずっと気になってたんだ。いつも大事にしてるから」
「知ってたの?」
「着替えは覗いてないよ」
 忍び笑いを漏らして、冗談めかして言う。チルカも少し笑った。
「お守り。オーヴス師からいただいたの」
「オーヴス師はチルカとどういう関係性にあるの? 家庭じゃなくて血統で括ってるって言ってたよね」
「関係性? ……あ、わたしの父です、母です、っていう?」
 チルカはベッドに寝転がったまま、首まですっぽり毛布をかぶっている。メルディ越しの月が、もう少しで半分になる。
「……おじいさん? おじさん……?」
 師弟ではなく血筋で考えるとなると難しい。
 祖父、くらいだろうか。年齢だけなら。
 実のところ年齢も知っているわけではないのだが、彼の手は森の{守|も}り{人|びと}のようだった。木と会話し、水の位置を知り、森中の開花の時期をすべて把握しているといわれる守り人。お伽噺の住人だが、近しい存在が数えきれないほどいることをチルカは知っている。
「親子ってどのくらいの年の差が多い?」
 ――メルディのお父さんとお母さんってどんなひとだろう。
 やっぱり黒い髪で、石炭を割った断面みたいな黒い瞳をしているのだろうか。
「難しい質問だね。子どもの数もそうだけど、再婚だとか……、――ごめん。僕の勉強不足だ」
 チルカは枕から頭を浮かして首を横に振った。答えにくい質問だろう。幅が広すぎる。
 メルディが目を伏せ、ありがとうと言って、それからチルカを見た。
「……チルカのお父さんとお母さんは?」
「わからない」
 ぽつりと答える。
「把握してるひともいるみたいだけど、わたしは知らない。子どもが生まれたらね、――乳母っていうのがいちばん近い? そのひとに育てられて、周りにいる年上のひとたちに色々教えてもらって大きくなる。……こういうのっておかしい?」
 ひとがどう思うか、感じるかが気になるなんてはじめてだった。多くのひとが家庭と呼ばれる括りで生活しているのは知っていたが、チルカからは遠いことだ。
「家庭も血統も在り様に絶対はない。おかしいとは思わないよ」
「うん……ありがとう」
 安心した。異端視されるのはつらい。
「ねえ、メルディ」
「なに?」
「活動拠点、やっぱり欲しい? あった方が楽?」
 月が少しずつ動く。影の音が聞こえる。
 春はまだはじまったばかりだ。これから季節は夏へと向かう。
 火花が散ったあの日。
「チルカ。きみは僕に嘘はひとつもついてない。でも、隠してることはあるだろ」
 微笑んだまま真実を突かれて、心臓がぎゅっと竦んだ。
「無理しなくていいんだ。頑張るっていうのは、相棒のいない隙に無理な仕事を重ねて、腕を痛めることじゃない」
「……」
 ――どうして知ってるの?
 声を出したら泣いてしまいそうだ。

【続きは製品版でお楽しみください】