『冥府の王は恋を謳う2 王女の庭園』 著:桧崎マオ イラスト:松島りょお 価格:300円 レーベル:フリージア文庫

【冒頭試し読み】

目次

冥府の王は恋を謳う3 狂気への序曲

 ……はぁ、はぁ……。
 息を急《せ》ききって歌恋は駆けていた。廊下に敷かれた絨毯は踏みつけられる衝撃と足音を吸収しながらも、毛足の長いパイルに履き慣れない新しい靴の裏を取られる度に、歌恋は、あっと小さく声を上げて転倒寸前のところまで身体を傾がせる。
 ペニンシュラ・ホテルの、この二一階のフロアはユリウス・アドラーが日本に滞在する間は借り上げとなっており、半ばブルーメンタール共和国領という状態で、必然的に今、廊下で擦れ違っている人間は全てブルーメンタールの関係者ということになるのだが、彼らへの挨拶も漫《そぞ》ろに、歌恋の急いでいる先はデラックス・スイート―――雇い主であるユリウス・アドラー元帥の執務室であった。
 何でこんな時に限って寝坊しちゃうんだろう……!
 もうひとりの通訳者である桐島千咲に、きっとまた怒られる。昨日散々見せられた桐島の、柳眉を顰め、眉間に皺を寄せた不機嫌な様を思い出して、廊下を走りながら歌恋は内心で小さく臍を噛む。
 初日の緊張と疲れ、そして翌日への不安から、なかなか寝付けなかったというのに、目が醒めた時の枕元に備え付けられたデジタル時計の数字は、七時七分を示していたのだ。
「……いっけない……!」
眠りの園でふわふわと浮遊していた歌恋の意識は、その瞬間、無理矢理に現実の世界に着地させられる。昨日の夕食の席で副官であるエルネスト・ヴィンクラー少将から告げられたのは、ユリウス・アドラー元帥は朝食の席で一日の打ち合わせを行うのを習慣としており、毎日七時半から始まるそれには必ず出席するようにということであった。
 優しい肌触りのリネンを蹴飛ばして文字通り跳ね起きた歌恋は、とにかく遅刻だけはしないようにと身支度もそこそこに宛がわれた自室を慌てて飛び出した。背中までストレートに伸ばした───幼い時から叔父の檀に綺麗だと褒められている自慢のダークブラウンの髪には、浮き上がるほどの寝癖がしっかり残っていたし、スーツとインナーの組み合わせも今日は適当なチョイスで、自分がどんな格好をしているのか確認もできていない。
 その上に昨日買ったばかりの履き慣れないスクエアトゥ・ハイヒールである。キップレザーの柔らかくて履きやすいものを選んだつもりではあったが、新品のせいか、早くも皮膚が擦れて妙な痛痒さを踵や小指のあたりに感じている。足許の不愉快な感覚に意識を取られながら、歌恋が廊下の角を曲がった所で───。
「……っ、きゃ、っ!」
 出会い頭、立ち塞がる影に正面から衝突した歌恋は、小さな悲鳴とともに弾き飛ばされて絨毯の床に尻餅をついてしまう。強か、その影に打ち付けた鼻を押さえながら顔を上げるとそこには、無駄なく鍛え上げられた体躯の主───ユリウス・アドラーの身辺警護責任者、ニコラウス・バルテル少将が冷厳な光彩を湛えたエヴァグリーンの瞳で歌恋を見下ろしていた。
「……おっ、おはようございます。バルテル少将」
 ブルーメンタール本国での憲兵隊副総監という本来の肩書きと職務を差し引いたとしても、このバルテルという男は元来無口な気質の男である。ぶつけて赤くなった鼻を擦りながらの歌恋の挨拶に、バルテルは感情の浮かばない相変わらずの硬い顔で小さく頷いて応えると、長身を折って手を差し伸べた。
「お怪我は?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
 無骨な手を取って立ち上がる歌恋に「では結構」と短い労りの言葉を残すと、バルテルは何事もなかったかのように、その脇を通り過ぎて行く。数拍の間を置いて、はっと気付いた歌恋は慌てて振り返るとバルテルの広い背中に向かって声を投げ掛けた。
「あの、バルテル少将。昨日はお世話になりました。ありがとうございます!」
 歩みを止めてバルテルは、その方を顧みると、深々と頭を下げてくる駆け出しの通訳者を映したエヴァグリーンの目を僅かに細めた。
 昨日、靴を買うために外出した歌恋に同行したバルテルであったが、ユリウスの命令に忠実に従って彼女を監視しているだけである。歌恋は与り知らないことながらも、バルテルにとっては任務の一環であって、礼を言われるようなことは何もしていない。
「ドーナツとコーヒーしかご馳走できませんでしたけど、また改めて御礼させて下さいね」
 背中までストレートに伸びた綺麗なダークブラウンの糸髪───寝癖のついたままのそれを掻きながら、歌恋はばつ悪く笑って見せた。寝坊でもしたものか、慌てて身支度をしたのだろう。決して高価なスーツを身に着けているわけではない、バルテルの目前に立つ駆け出しの通訳者の今日の出で立ちは、ちぐはぐで、どこかくたびれているようにも見受けられた。
「遅刻するのでは?」
 バルテルの低い声に現実を告げられて、歌恋は頭を掻くポーズのまま一瞬固まったかと思うと、次の瞬間には「いっけない!」と声を上げて勢いよく再び駆け出して行った。その様は、春先の不意の突風が花片を巻き上げて通り過ぎていくかのごとく、である。
 ……あの少女の一体どこに監視をするだけの理由があるというのか。
 角を曲がって駆けていく歌恋の後ろ姿を静かに見送るバルテルの裡に浮かぶのは、昨日から何度も繰り返してきた答えの出ない自問であった。それは憲兵隊副総監の地位にある彼にとっては絶対的な共和国軍総司令官、ユリウス・アドラー元帥の命令に対して初めて抱いた疑問でもあった。
(『デート』をご一緒していただいた御礼ですから!)
 昨日は、監視の対象である四ノ宮歌恋のペースにバルテルは完全に巻き込まれていた。買い物も終わり、ホテル・ペニンシュラに戻ろうという頃合い、いっぱいの笑顔と屈託のない冗句を振りまく歌恋に引き摺られるように立ち寄ったドーナツショップで、優しく、甘い香気を放つハニーコーティングのドーナツとドリップコーヒーを差し出されて、バルテルは困惑することになる。
 共和国国家憲兵隊の任務の主たるものは、政治犯やテロリスト、特に二〇年前のクーデター以降は旧ブルーメンタール王家に忠誠を誓う王党派やその協力者といった不穏分子の取り締まりである。監視、逮捕、そして尋問という名目の下で行われる拷問───下士官時代から長らく憲兵隊に所属し、様々な形で不穏分子と呼ばれる人間に数多関わってきたバルテルは、彼らという存在を熟知しているつもりであった。だが、そんなバルテルの眼にも、差し向かいの席でキャラメルナッツのドーナツを頬張りながらダークブラウンの瞳を子供のように輝かせ、通訳者としての将来の夢を屈託なく語る四ノ宮歌恋は、どこにでもいるごく普通の少女にしか映らなかったのである。
 だが一方で、甘過ぎるドーナツを囓りながらのバルテルの脳裏には、彼女の叔父という人物が浮かび上がっていた。
 歌恋との何気ない遣り取りの中から聞き出した、四ノ宮檀《しのみや まゆみ》という名前の男。昨日、姪を見送りに来ていたという彼を遠目に見ただけではあったが、その佇まいには軍属の者特有の所作があることをバルテルは即座に見抜いていた。それもバルテルにとっては身近な……否、士官学校時代から現在に至るまで永らく自身の身体に染みついているものと同じであるからこそ気が付けたことである。
 ……あの四ノ宮檀とかいう男、元ブルーメンタール軍人か……。
 尖り気味の顎を一撫でし、バルテルは思案を巡らせる。あの様子では本人は恐らく与り知らないことであろうが、事前にチェックをした歌恋の荷物から出てきた盗聴器の数々は、その四ノ宮檀によるものとバルテルは半ば確信している。そして、あの盗聴器は最初から見つかることを前提とした囮であり、恐らくどこかに盗聴器の類はまだ残っているであろうことも───。
「おはようございます、四ノ宮です!」
 バルテルを現実に引き戻したのは歌恋の急いた声であった。この廊下の、背後の角を曲がって向こうにあるユリウス・アドラー元帥の執務室前に立つ警備兵に入室の許可を求めているところのようだ。
 彼女、四ノ宮歌恋そのものからは不穏分子の人間が持つ特有の、秘密の翳りや虚言の臭いと言ったものは微塵も感じられない。だが、彼女の手荷物に仕掛けられていた盗聴器の数々に、そしてブルーメンタール軍属の所作を取る叔父の存在───今はまだ静かであるが、彼女を目として、その周辺で何やら不穏な、嵐の前を思わせる気配が漂っていることを、この辣腕で以て鳴る憲兵隊副総監の男は職務上で培ってきた長年の勘から感じ取っている。
 バルテルは静かに踵を返した。歌恋が早速履いていた、昨日、バルテルの前で選んだ、幼い雰囲気の彼女には似つかわしくないほどにシックなデザインのハイヒールに、ふと思いを馳せながら。
「あれは、転ぶな」
 思わず漏らしたバルテルの小さな呟き。それに被さるように執務室のドアの向こうから聞こえてくる歌恋の悲鳴と、何やら派手にぶつかり合うような音が聴覚を微かに刺激する。ほんの数秒前の自身の取り留めのない小さな予言が的中したことに、バルテルはエヴァグリーンの眼差しを明後日の方向に彷徨わせて憮然と溜息を吐いた。

【続きは製品版でお楽しみください】