堕ちてゆく果実

『堕ちてゆく果実―視られてはしたなく変わるカラダ― 』 著:猫宮乾 イラスト:一宮こう 本体価格:350円 レーベル:フリチラリア文庫

【冒頭試し読み】

目次

堕ちてゆく果実―視られてはしたなく変わるカラダ―

【1】

 この学園都市には、貧乏人と大富豪しか存在しない。
 そもそもが富裕層のために作られた学園都市なのである。幼稚舎から大学院までを中心に都市を形成している。中でも最も存在感があるのは、都立桜染大学だ。
 都市中には、時計の文字盤のようにモノレールが張り巡らされている。各地の噴水や常設されているプロジェクトマッピングによる演出は、最先端の技術を用いながらも、都市全体には上品な空気感をもたらしている。立ち並ぶ店舗は、一部のコンビニエンスストアを除いて、ほぼ全てが高級店だ。都市の中だけで使用可能な電子通貨も存在している。
 木々が立ち並び花々が咲く区画、古のイタリアを彷彿とさせるようなオブジェに彩られている区画、都市の奥には、貸切可能なテーマパークや水族館、動物園も存在している。人気のデートスポットは、水上レストランだと、専らの噂だ。
 ――噂、と言っても、僕が直接耳にしたわけではない。
 大学生活の日々の中で、例えば図書館の掲示板に張り出されている広告を眺めた結果だったりする。僕の大学における日常は、ほぼ大部分においては、平々凡々だ。朝、大学に行き、出欠確認の為のカードリーダーに学生証をかざし、いくつかの講義を受けては帰宅する。時には、図書館に立ち寄り、興味を抱いた小説を借りる事もある。
 この日も僕は、レポートの参考文献を右手で抜き取ってから、図書カードを左手に持った。図書館は混雑していて、レポート作業をしている学生の姿も目立つ。その後エスカレーターで、僕は一階へと向かい、帰宅する事にした。
 我ながら、どこにでもいる学生だと思う――この都市の大学以外であるならば。
 なにせ、この都市において、僕は貧乏人の方に分類される。実際貧乏だ。
 だから、僕は、平々凡々ながらに、一風変わった奨学生制度を利用している。
 それは、貧乏人のためというよりも、富裕層の為に作り出されたものなのかもしれない。
 ――普通の大学生の生活を覗いてみたい。
 お金持ちの考える事というのは分からないもので、そんな奇特な人々が存在するらしい。その結果、奨学生として進学した僕にあてがわれた部屋には、監視カメラが付いている。
 一見すれば、監視カメラには見えない。
 帰宅した僕は、顔を上にあげて、天井を見上げた。片手でカップラーメンの用意をし、時計を一瞥するのは忘れなかった。
 黒い半筒型のカメラが、部屋の中央についているのだ。
 それを一瞥してから、僕はカップラーメンに視線を戻した。
 昔から変わらない相変わらず切り詰めた生活を送っているが、監視カメラの下で生活してさえいれば、僕は学費を支払わなくて良い。
 割り箸を手に取り、陽光の差し込む窓を見る。大学に入学して三ヶ月。夏が来た。
 ふたを開け、カレー味の麺を啜りながら、コタツの上に鎮座しているノートパソコンへと視線を戻す。明日はレポートの提出日だから、この簡素な食事を終えたら、僕はレポート作業に打ち込む予定だ。
 ――本当に僕の部屋を視聴している人々などいるのだろうか?
 奨学生以外の一般学生には、閲覧専用のタブレットが配布されているのだという。
 しかし奨学生同士は、互いの生活を覗く事はできない規則だ。入寮時に、こうした幾つかの規則を書いたパンフレットを貰った。
 なんでも人気が出れば、奨学金の額が上乗せされていくらしい。
 どうやって人気を博すのかは、説明書には記載されていなかった。
 都立桜染大学には、男子学生しかいない。公的には共学だが、暗黙の了解で男子学生しか入学できない事になっている。同様の制度を持つ女子学生ばかりの大学が、近隣に存在しているそうだ。
 カップラーメンを食べ終え、ゴミ箱に投げ捨てる。汁まで飲み干した僕は、貧乏性だ。
 その後は、無事にレポートを書き上げて、印刷した。
 そして私服からジャージに着替える。
 もう慣れたが、当初はカメラの下で着替えるのは、多少羞恥にかられた。
 そんな事を考えながら就寝し、翌朝も僕は監視カメラの下で着替えをした。
 そして玄関へと向かい、僕はよろめきながら靴を履いた。
 玄関にも監視カメラはあるし、お風呂やトイレにさえカメラはある。
 だが閲覧者はどうせ同性だ。そう思えばすぐに羞恥心など消えた。
 むしろ男の排泄風景など、見る方が苦痛だろうとすぐに察したのだ。
 カバンを横がけにして、それから僕は大学へと向かった。バスに揺られて、長い坂の上にある構内へと入る。
 そして――格差を実感するのだ。
 秘書を連れて大学へ来ている学生は、かなりの数に上る。
 上品な衣服を着ている学生が多く、僕のように下北沢で購入したような私服を着ている学生は滅多にいない。レポートを僕のようにギリギリに出す学生も滅多にいないから、向かった文学部準備室は空いていた。僕は日本文学を勉強している。
 一学年はだいたい三百人前後だ。
 奨学生が約三十名だから、十人に一人は奨学生だ。
 中には目立っている奨学生もいる。常に人に囲まれているのだ。
 僕は良い意味でも悪い意味でも目立っていない。
 だから学内で声をかけられることもない。
 無事にレポートを出し終えた僕は、エレベーターを待っていた。
 白いイヤホンで音楽を聴いている。この後は学食でパスタでも食べようかと考えていた。扉が開いたのはその時のことだった。
 降りてきたのは、僕でさえ知っている構内の有名人だった。
 古くから続く大手製薬会社の御曹司――三澄直衛だ。すっと通った鼻梁をしていて、カラスの濡れ羽色の髪と目をしている。背の高い彼を見上げてから、僕は一歩脇にそれた。僕とは天と地ほど立場が違う。今も彼に続いて降りてきた、一種の取り巻きの人々が、三澄を称賛する声をあげていた。
「お前ら、先に行っていろ」
 その時凛とした声が響いた。少し低めのテノールの声だった。
 ぼんやりと見守っていた僕は、不意に肉食獣じみた三澄に、まっすぐに見据えられた。
 それだけでゾクリと背筋を怖気が這い上がる。
 関わってはいけない人物――それが当初からぼくが三澄に抱いていた印象だ。
 切れ長の瞳、端正な顔立ち。何より他を寄せ付けないような、圧倒的な存在感に気圧されそうになる。気づけば、その場には僕たち二人きりになっていた。
「確かお前は、奨学生の泉水晴佳だったな」
 唐突に名前を呼ばれ、僕は正直うろたえた。何故僕のことを知っているのだろう?
 雲の上の人の言葉に驚きながら、僕は音楽を止めた。
「その……ファンなんだ。良かったら、食事でもどうだ?」
 響いたその声に、虚をつかれて僕は目を見開いた。

【2】

 短く息を飲む。
「いつも見ている」
 ……!
 僕の部屋を視聴している人は、本当にいたのか。
 それも三澄ほどの有名人とは……。呆気にとられるというのは、こういうことを言うのだと思う。
「それとも部屋に連れ込んでいないだけで、想い人がいるか?」
「ええと……どういう意味ですか?」
「お前ほど綺麗ならば、すでにお前を囲い込んでいる男の一人や二人いるだろうと思ってな」
 僕が、綺麗? 囲い込んでいる男? 言われている言葉の意味が全くわからない。
 ただ、学内でも有名人であり、近寄ることさえ畏れ多いとされている三澄が、どうやら僕の部屋を視聴しているらしいということだけはわかった。何が面白くて僕の部屋を視聴しているのかはさっぱり分からなかったけど。
「もしいないのであれば、付き合ってほしい。食事くらい、良いだろう?」
「その……手持ちが無くて」
「『宮』が手持ちを気にする? 新しいな、お前は。全てはこちらで支払う。何も気にするな」
 三澄はそう言うと、エレベーターのボタンを押した。
 首をかしげつつ、僕は慌てて彼の隣に並んだ。
「三澄さん」
「俺のことを知っているのか? 嬉しいな」
「有名人ですし」
「お前ほどじゃない」
 繰り返すが、僕は自分が有名になった覚えなど全くない。
 だから不思議な心地だったが、それよりもまずはわからないことを聞くことにした。
「あの、『宮』ってなんですか?」
「奨学生にそれぞれあてがわれる通称だ。お前だったら、『泉水の宮』だ」
 へぇそんなものがあったのかと思っていると、エレベーターの扉が開いた。
「宮は皆、様々なものの寵愛を受ける」
「寵愛?」
「――本当に何も知らないのか? 噂通り」
 噂とはなんだろうか。
 ただ、僕が何も知らないのは本当だった。
 構内において、僕には友達が一人もいない。
 富裕層は基本的に、奨学生とは接触しないらしく、こちらも一歩退いてしまう。
 そして何故なのか、奨学生同士は、皆仲が良くないようなのだ。
 それ以前に僕は構内で嫌われているのかもしれない。
 皆、僕の姿を目にすると、凍りついたようになり、その場が静まり返るのだ。
「俺でよければ教えてやるぞ」
「あの、是非お願いします」
「そう言うことならば、お前の部屋にあげてもらえるか?」
「全然いいですよ。そんなに綺麗じゃないけど」
 こうして僕らは、僕の部屋へと向かうことになったのだった。

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