『幸子』

著:椿童子 イラスト:忍足あすか 価格:450円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】

幸子

~初恋は甘く切ない、でも、私たちは互いを信じていた~

第一章 平成24年晩秋

 文京区の中で下町の色彩が残る根津駅に程近く、周囲には木々が多い静かな環境に私が勤務する病院はある。昭和30年代、東京とはいっても農村の香りが多く残っていた江戸川区の東の端で私は育ったため、周囲に緑の多いこの地が気に入っている。病院は大きな欅の他、どんぐりなど、いろいろな木々に囲まれている。

 その木々を通る香りのよい風とともに穏やかな秋の日差しが院長室に差し込んでいる。

 夏の厳しい暑さに耐えた多くの葉が色づく、この季節が私は大好きだ。
 そろそろ午後3時になる頃、私はお気に入りの坂本冬美の曲を聞いていると、
「いいですね、この曲」
 と事務長が院長室に入って来た。
「岡田さんもお気に入りですか? 昼間、こうして〝また君に恋してる〟を聞いていると、なぜか気持ちがリラックスするんですよ。勿論、夜のスナックでは〝夜桜お七〟ですがね。はっはっは」
「今度、お付き合いさせて下さい」
「いやいや、岡田さんには敵いませんから。ところで、見積もりは出ましたか?」
「はい、これです」

 私は都内のある総合病院の院長を務めている。大震災の後、各地で建物の耐震性について問題があるとの記事が新聞を賑わしているが、この病院も同じだ。新館は問題ないが、本館は築後40年を経ているため、補強が必要で、現在、第二期工事が進んでいる。来春には最終の第3期工事を予定している。今日、事務長の岡田さんからその説明を受ける予定だった。

「建設会社が持ってきた見積もりでは予定額を百万円ほどオーバーしているのですが、患者さんが安心して通院、入院できるためにはやむを得ないものと考えます」
「そうですね。この件は今晩にでも私の方からも理事長にお話しておきましょう。岡田さん、よろしくお願いします」
「院長からそう言っていただけると大変助かります」
「いや、岡田さんの考えの通り、患者さんが安心して通院、入院できる病院でなくてはいけません」

 そこに、事務室の町田主任が入ってきた。
「院長先生、今年も来ましたよ。ほら。澤田《さわだ》リンゴ園からのリンゴと手紙ですよ」
 町田さんが嬉しそうに手紙を私に差し出した。
「先生、リンゴ、如何ですか?」
「じゃあ、1つ剥いて下さい。みなさんも食べて下さい」
 開け放したドアの向こうでは、“もう食べてますよ!”と言った顔が見える。みんな、この季節になると楽しみにしている。

 手紙は青森の澤田リンゴ園、正確に言えば澤田《さわだ》幸子《さちこ》からのものだ。

「関口《せきぐち》誠一《せいいち》様
 ご無沙汰しております。今年は大震災などいろいろなことがありましたが、リンゴは地面にしっかり根を下ろしていますので、震災にも負けない立派な果実をつけてくれました。弘前の自然の恵みが詰まった例年に負けない出来だと思います。少しばかりですが、ご送付申し上げます。  皆様で召し上がって下さい。

毎年、受粉作業を始める前に、亡くなった主人は
『リンゴの恵みで育まれた、この命、リンゴ作りに捧げます』
と祈っていました。今は、私がその役割を担っています。そのおかげで、今年も収穫に恵まれました。
また、今年はこの他に嬉しいことが二つありました。一つは息子に男の子が産まれ、おばあちゃんになったこと、二つ目は娘の縁談がまとまったことです。
それから、誠一さん、院長になられたんですね。おめでとうございます。あなたの目指す“心も癒す医療”、頑張って下さいね。
最後に私のことですが、この夏、働き過ぎたのかも知れません。少し痩せて、昔のジーパンが穿けるようになりました。でも、ちょっと腰を痛めてしまいました。もう若くはないですね。
これから寒くなりますので、お体に気を付けて下さい。

澤田幸子

追:母校も創立110年を迎えるそうですね。もうすっかり昔になってしまいましたね」

 幸子、君も元気そうだな。大地にしっかり根を下ろしているのはリンゴだけじゃないね。君も弘前の地に根を下ろしている。
 母校も110周年か。もうすっかり昔になってしまったね。初めて出会ってから40年も経ったんだね。

 外では木々もすっかり色づき、冬支度を急いでいる。

「院長先生、千葉のおばあちゃんが、どうしても先生に診てもらいたいといっていますが?」
 そら来た。これが私の望んでいる現場での医療だ。
「はい、いいよ。今行くから診察室に通しておいて」
 幸子、無理しちゃだめだよ。

第二章 平成15年冬、再会

 穏やかな午後。小春日和の柔らかい日差しが部屋に差し込んでいる。
 私はラジオから流れるMr.Childrenの〝君が好き〟を聞いていた。
 もう午後の診察時間も終わりかな、と思った頃、診察室の外が騒がしくなった。

「先生、急患です」
 看護師の青木さんに続いて40歳代の男性が付き添いの者に支えられて診察室に入ってきた。お腹に痛みがあるようで、青白い顔をしてお腹を押さえ、座っているのも辛そうだ。

 私は彼をベッドに寝かせると、付き添いの者に具合を尋ねた。
「昨晩から痛み出したらしいのですが、今日の物産展にはどうしても出るといって我慢していたんです。午後2時頃ですか、トイレに行くといって会場から出ていったのですが、中々戻らないので、様子を見に行ったら倒れてたんです。それでびっくりして病院に連れて来ました」
「物産展?」
「ああ、すみません、私たち、弘前のリンゴ農家の者です。こいつが澤田で、私は吉田と言います。シビックセンターで各地の名産を集めた物産展があり、それに参加してまして」
「そうですか、分かりました。澤田さん、どんな具合ですか? 答えられますか?」
 私の呼び掛けに、彼は右下腹部を押さえながら、「絞られるような感じです」と額に脂汗を滲ませながら小さな声で答えた。
「ちょっとお腹を見せて下さい」
 下腹部に触れてみると、硬くなっている。どうも急性虫垂炎のようだ。
「澤田さん、詳しく調べますから。青木さん、検査室にお願いします」
「先生、どんな具合ですか?」
 付き添いの男は心配そうだった。
「失礼ですが、澤田さんとはどういったご関係ですか?」
「ああ、すみません。私たち弘前のリンゴ農家の者です。私が取り纏め役をしております吉田です。澤田には私の補佐をしてもらっています」
「組合長さんですか?」
「いや、私たちはそれぞれのリンゴ園の後継ぎです。親父達のやり方で将来も大丈夫かと、いろいろ考える者が集まってちょっとした仲間を作っているんです」

 誠実そうな顔には嘘はないと思った私は、「そうですか。検査結果を見ないとはっきり言えませんが、澤田さんは急性虫垂炎、分かり易く言えば盲腸炎のようです。検査結果次第では、直ぐに手術することになるかも知れません」と隠さずに伝えた。

「盲腸ですか」
 彼は安心したようだった。そして、「分かりました。澤田とは親戚付き合いですから、家族に電話しておきます」と立ち上がった。
「それではよろしくお願いします。検査結果が出ましたらお呼びしますので、外でお待ち下さい」
 私はカルテに症状を書き込み、一息つくと、青木さんが検査結果を持ってきた。やはり急性虫垂炎だ。
 私は澤田さんにその結果を伝え、手術した方が良いと言った。
「先生、分かりました。よろしくお願いします。すみませんが吉田さんを呼んでもらえますか?」
 そして、吉田さんが病室に入ってくると、青白い顔をした澤田さんは家族へ電話して欲しいと伝えたが、「義一《ぎいち》さん、大丈夫だ。さっき幸子さんに電話したよ。今日はもう列車が無いので、明日の始発で来るそうだ。心配するな、今日は俺がついているから」と吉田さんが答えていた。
「すまないなあ」
「何を言うんだ、遠慮するな。それに、物産展は大成功だってよ。金子さんたちも来たから、安心して手術してもらえ」
「うん、分った」

 二人の会話を聞いていると、吉田さんが言ったことに嘘はなく、親戚付き合いしていることが分った。

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