『恩師に捧げる愛~あなたのことは決して忘れない~』

著:椿童子 イラスト:忍足あすか 価格:400円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】

目次

綾乃さん
郁子先生

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第一話 綾乃さん

訃報

 平成27年2月、寒気はまだまだ緩まず、特に明け方はひどく冷え込んでいた。
「あっ、山口さん?」
「はい、そうですが?」
「茜《あかね》病院《びょういん》の佐藤です」
 ベッドサイドの時計を見ると午前6時を少し過ぎたばかり。こんな早くに病院から電話があるのは、直感的にいいことではないと思った。
「聞こえますか?」
「はい。どうかしましたか?」
「綾乃さんが、松田《まつだ》綾乃《あやの》さんが、先程、午前5時40分に息を引き取りました……」
「松田綾乃」は私の尊敬すべき人で、秘かな恋心を抱いた人でもあった。彼女は長らく四国にある茜病院というところで看護師として働いており、佐藤さんというのはそこの理事長だ。
 彼女と最後に会ったのは1年前。
 昭和9年、1934年生まれだから、もう80歳にも関わらず現役の看護師として活躍していたが、半年ほど前に風邪を拗らせ入院していた。
「先月電話した時は元気でしたが」
「いやあ、先週は随分と持ち直していたんですが、昨日から急に血圧が低下しましてね、あなたに連絡できなくて申し訳ございませんでした」
「そうですか……」
 私は声が詰まって言葉が続かなかった。
「それで、通夜、葬儀ですが」
 電話の向こうから、通夜が明後日、葬儀はその翌日、そして綾乃さんの意向で私に喪主を務めて欲しいと伝えてきた。
「喪主の件は分りました。しかし、私はそちらのしきたりなどが分らないので大丈夫でしょうか?」
「松田さんに世話にならなかった人はいませんから、役場も青年団も全員が協力して全て手筈は整っております。何も心配いりません」
「そうですか。何から何まですみません」
「いいんですよ。彼女が望んだ通り、喪主はあなたしかいない。それに、あの人らしいですよ。通夜、お葬式の費用は彼女が全て用意してあるんですから。山口さんは、言葉が悪いですが、体一つで来てくれればいいんですよ」
 私の不安を取り除くように、佐藤さんは明るく答えてくれた。
 しかし、次のことを話す時には声のトーンが変わっていた。
「それよりも、相談したいことがありますので、なるたけ早くお越しいただけませんか?」
「相談?何かありましたか?」
「ええ、まあ、松田さんのご家族のことです。これは弁護士であるあなたのお力が必要なんです」
「家族がいたのですか……」
 結婚したことがあるとは言っていたが、まさか子供が……私が思い巡らせていると、やはり、その通りだった。
「いや、『家族がいた』とは言い切れませんが、彼女の枕元にあった封筒に戸籍謄本があって、そこに『智樹《ともき》』という名前があって、私もびっくりしたんですよ。いろいろ事情があったのだと思います。私とあなた宛てに手紙がありますから、それに詳しく書いてあると思いますが、どうも一人では読めないので、あなたに早く来て欲しいのですよ」
 綾乃さんに息子がいたのか、何も言っていなかったが……私は混乱し、何と答えていいか分らなかった。
「山口さん? 聞こえますか?」
「あ、はい、聞こえてます」
「いかがですか?」
「分りました。夜になりますが、明日には伺います」
 私は明日以降の全ての予定をキャンセルし、四国に向うことにした。

出会い

 私が綾乃さんと親しくなったのは、ほんの偶然の出来事からだった。
「江上先輩、浪人するんだって」
「やっぱり。東大しかダメなんだよね」
 前年から続いていた東大紛争は1月の安田講堂攻防戦で終息したが、昭和44年3月の東大入試は中止になってしまった。
 当時、都立高校の1年生だった私は、所属するブラスバンド部の春休みの特別練習に参加していたが、話題は大学入試のことで持ちきりだった。
「夕方から雨だって言ってた。帰る時は傘を持っていった方がいいわよ」
「天気予報、そんなこと言ってた? 大丈夫だよ」
 午後5時過ぎ、練習を終え校舎から出ようとした時、同じブラスバンド部の女の子が教えてくれたが、傘を取りに戻るのが面倒なので、私はそのまま飛び出してきた。
(なんだ、大丈夫じゃないか……)
 電車を降りた時、まだ小雨がぱらつく程度だったので、家までは10分足らず、急げば大丈夫と駆け出したが、意外に雨脚は早く、制服はおろか下着までずぶ濡れになったしまった。そこで、仕方なく雨宿りのため、近くのマンションに駆け込んだ。
(うう、寒いな……)
 春とは言え、まだ3月で気温は低く、ずぶ濡れの私が震えていると、背中から声がした。
「太一《たいち》君、じゃないの?どうしたのよ?」
 それが綾乃さんだった。母が病気で入院した際、お世話になった看護師だ。
「震えてるじゃない。とにかくウチに来なさい」
 階段を上る間も、私を抱えながら体温が下がらない様に体を摩ってくれていた。
「さあ、狭い所だけど、中に入って」
 玄関のドアを開けると、テーブルにカバンなどを置くと、「こっちよ」と風呂場に連れていってくれた。
「シャワーを浴びて温まりなさい」
 そして、彼女は母に連絡してくれた。
「綾乃さんには、何度も助けてもらうわね。太一、ちゃんとお礼しなさい」
「いいのよ、太一君。今度、ゆっくり遊びに来なさい」
 綾乃さんは優しく微笑んでいた。

 2週間後、健康を回復した私は母が用意してくれたお礼の物を持って綾乃さんのマンションを訪ねた。すると、待ちかねていたように、「いらっしゃい」と階下のピロティまで降りてきていてくれた。
「本当はアパートで十分なんだけど、それだと一人だって分かっちゃうから、夫婦でも住める二間もあるこのマンションにしたのよ。ほら、こっちの和室、何にも置いてないでしょう?」
 前回はブルブル震えてばかりで、部屋の様子などは何も覚えていなかったが、言われて見ると確かに和室には机が一つあるだけで他に何も置いてなかった。
「本当だ。何もないや」
「まあ、はっきり言うのね」
「えっ、いや、あの、ごめんなさい」
「ふふふ、いいのよ、その通りなんだから。でもね、女の一人住まいは危ないの。そう、太一君は私のガードマンかな」
「ガードマン?」
「ほら、テレビでやっているでしょう」
 当時の人気ドラマ、宇津井健主演の「ザ・ガードマン」のことだ。
「だから、しっかり守ってね」
 その後も母が綾乃さんと親しくしていた関係で、私は母のお使いを兼ねて何度かこの部屋を訪ねた。
 当時、綾乃さんは35歳になったばかりで、優しく、よく面倒を見てくれると評判だった。
「綾乃さんは本当にいい人。いいお嫁さんになれるのに、先生たちはどこを見ているのかしら」と母はよく言っていた。
 しかし、私は「そんなことになってはいけない」と真剣に思っていた。彼女に秘かに恋心を抱いてしまったのだ。
 彼女も私のことを大変可愛がってくれ、「甥っ子なの」と近所の人には説明していたようだ。
「一度、結婚したことがあるのよ。でも、うまくいかなかったわ。もう結婚はこりごり」
 綾乃さんが私に教えてくれたことがあった。
「看護学校を卒業して、運よく総合病院に勤めることが出来たの。そこで、縁があってお医者さんと結婚したの。25歳の時だった」
 彼女は懐かしいことでも思い出したようにほんの少しの間、窓の外を見つめていた。
「でもね、うまくいかなかったの。彼の親族から格が違うとか、散々言われちゃって、また、そんなことに彼も嫌気がさしたのかな、女医さんと浮気したのよ。それなのに、やっぱり対等じゃなきゃいけない、医者同士がいいって、私が追い出されちゃったの」
「ひどいじゃないか、綾乃さんは被害者なのに!」
 世の中にこんな理不尽なことがあるなんて、高校生の私には到底受け入れることが出来なかった。
「太一君も大人になれば、もっと嫌なことを経験するのよ」
 私が興奮して顔が真っ赤になっていたのを鎮めようと、ジュースかなんか、冷たい飲み物を出してくれたのを覚えている。

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