月にかかる虹

『月にかかる虹』

著:横尾湖衣 価格:300円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】

和泉《いずみ》は仕事帰りにスーパーに寄った。「今日の夕飯は何にしようかなぁ? 絵《かい》の好きな煮込みハンバーグにしようかなぁ」と思い、和泉は煮込みハンバーグに必要な玉ネギや挽き肉などの材料を買う。だんだん日が長くなってきているとはいえ、さすがに七時をこえると暗い。「早く帰って、ごはん作らないと」と、和泉は家路を急いだ。
藤崎和泉《ふじさきいずみ》には、絵という血のつながらない弟がいる。父親の再婚相手である綾乃《あやの》の連れ子である。和泉は現在その弟と父親と暮らしている。三人家族だが、父は仕事で出張が多く、ほぼ家にいない状態だった。和泉は美術大学を卒業し、すでに就職している。就職先は、テーブルウェアである洋食器を作って販売している会社である。和泉はそこで食器などのデザインやペイントをしていた。
和泉がデザインした柄で人気なのは、「ジャパニーズ・サクラ・チンツ」というシリーズである。チンツはchintzと英語で綴る。更紗のことだ。インド起源の木綿地の文様染め製品のことで、桜をその文様のようにデザインした柄である。特に紅茶の国イギリスで人気だった。

「ただいまー」
和泉は玄関の鍵を開けて家の中に入ると、弟の絵がリビングから出てきた。すごく不機嫌そうな顔だった。
「和泉、遅い!」
絵はそう和泉に怒りながら言った。
「ごめん、ごめん。遅いって言っても、まだ七時半ちょっと過ぎじゃない」
和泉は笑いながら背伸びをし、絵の頭にポンと手をのせる。ぷぅーと膨れっ面の絵は、最近急にぐんと背が伸びて、和泉の背丈よりも少し高くなっていた。「ほんと背伸びたなぁ。でも、まぁ、中身は小学生のまんまだけど」と思い、和泉は心の中でくすっと笑った。
「ねぇ、今日のご飯なに?」
絵がぶっきら棒に聞いてきた。
「絵くんの好きな煮込みハンバーグだよ」
和泉がそう答えると、絵の不機嫌な表情がパッと薔薇色になった。和泉はそれを見て「分かりやすいなぁ。まぁ、素直と言えば、素直なんだろうけど」と苦笑いする。

和泉の父親と絵の母親が再婚したのは、十二年前だ。つまり、和泉と絵は十二年前に姉弟となった。絵の父親は画家だった。水奈月晃《みなづきこう》という、日本だけでなく世界にもその名が知れている画家だ。十代でフランス画壇の登竜門と言われる公募展、「サロン・ドートンヌ」に出品し入賞した経歴がある。しかし、その後あまり作品が評価されずにいた。しかし、画風を変えた作品が有名なパリの画商の目に止まり、作品が買い上げられ画廊と契約し、一躍その名が知られる画家となったのだ。しかし、絵の父親は事故であっけなく亡くなってしまった。そのときの絵は、まだ赤ちゃんだった。どういうふうにして知り合ったのか、どういう成り行きで再婚することになったのか、そんなことはまったく分からなかったが、とにかく親同士が再婚したのである。和泉と絵は、九歳年の差がある。けっこう年が離れている。だから和泉にとって絵は、何か複雑な存在だった。
四人家族として暮らしていたが四年前に母親の綾乃が亡くなり、だから今は三人家族となっている。何とも複雑な家族関係である。その頃からだった、絵が和泉のことを「おねぇちゃん」とか「いずみちゃん」とか呼ばなくなったのは。そして生意気にも「和泉」と呼び捨てになった。

「ほら、絵くん。もうすぐ出来るよ。テーブルの上、片付けてくれないかなぁ?」
と和泉は絵に言う。すると絵はゲームを止め、テーブルの上を片付け始めた。布巾でテーブルの上を拭いてくれる。
「これ、運んでいいの?」
絵がサラダを指差しながら聞いた。
「うん、お願い」
和泉は絵にお願いする。「いい子だと思うんだけどなぁ。なんでなんだろう、学校では問題児扱いされちゃうのは」と和泉は、煮込みハンバーグの入ったお皿を運ぶ絵を横目で見ながら、そう思った。

和泉は絵と向かい合わせで食事をする。絵はお腹が空いていたらしく、むしゃむしゃと一心に食べている。食事は、こんなふうにほとんど二人っきりだった。父親は忙しく、ほとんど家にいなかったし、今は海外の支店に赴任している。だから和泉が絵の保護者として、面談とか学校の用事には出掛けていた。
がつがつと食べていた絵は、ある程度お腹がいっぱいになると、小さい声でぽつりと言った。
「ねぇ、今日、学校に来たでしょう?」
和泉が黙っていると、心配そうな顔付きをして聞いてきた。
「何か、オレのこと、言われたんでしょう?」
絵は悔しそうな顔をした。
「あっ、うん。言われたよ。二年生のころより真面目になったって」
和泉は、学校の担任の先生と学年主任の先生に言われた良い所だけを言った。
「それだけ?」
「うん、それだけ」
和泉は精一杯笑顔を作って答えた。絵は疑い深く和泉の表情をじっと見ている。「こいつ、勘は鋭いから、疑っているかもしれない。姉として、しっかりしないと」と和泉は気を引き締める。
「それだけだよ」
念を押すように、和泉はもう一度言った。しかし、絵は納得していない様子だった。和泉は「面倒臭いなぁ」と思いながら、「心配しているんだろうなぁ」と思い、さらに付け加えた。
「もし他にあったとしても、気にしない。絵くんは絵くんだし、絵くんのいい所、いっぱい知っているしね」
そう言うと、絵はやっぱりというような表情をした。
「絵くん、心配しなくていいよ。たいしたことないんだから」
そう言って、和泉は絵の頭をぐしゃぐしゃなでた。絵もそれ以上何も聞こうとしなかった。

(続きは製品版でお楽しみください)