『桜の夢』

著:横尾湖衣 価格:300円  レーベル:蘭月文庫

 

【冒頭試し読み】

 

「花橘の香り」

一、

これもまた、昔の話になります。東《あずま》の国で起こったあの大乱を鎮圧された衛門督《えもんのかみ》、藤原宗近《ふじわらむねちか》と、その衛門督を生涯慕い続けたという姫君との恋のお話になります。

衛門督は、当時の左大臣忠通《ただみち》の太郎君《たろうぎみ》(長男)でした。特に馬術や弓に優れ、武芸にずば抜けた才能を持っていました。また、和歌の才能や漢籍の才能もあり、文武両方に優れた公達《きんだち》として、今でもその名が伝わっている方です。
一方の姫君は、天皇の外戚である関白の三の君(三女)でした。将来の東宮妃として大切に育てられていました。上の二人の姫君は、すでに入内《じゅだい》し立后されていました。大君《おおいぎみ》(長女)は大原院《おおはらいん》の中宮の待賢門院《たいけんもんいん》、中の君《なかのきみ》(二女・次女)は今上帝《きんじょうてい》の中宮です。当然誰しもがこの姫君が東宮妃になるものと思っていました。

※※※

二、

ある夕暮れのことでした。身分を隠して石山詣《いしやまもうで》に出掛けられたその帰途に、姫君が乗った牛車《ぎっしゃ》が何者かに襲われました。屋形《やかた》の簾《すだれ》が引き千切られ、同行していた女房《にょうぼう》の一人が、賊に手を握られ箱から引き降ろされました。他の女房たちは、姫君を奥にして必死に隠そうと手を広げたりしました。近くでは三人の従者《ずさ》が倒れており、牛飼い童《うしかいわらわ》が脅えて腰を抜かしていました。

賊の一人がはっと気がつきました。姫君のあまりの美しさに、しばらく身動きひとつせず見入っていました。姫君もお付きの女房たちも蛇に睨まれた蛙のように、生きた心地がしませんでした。
その賊が女房たちを押しのけ、姫君に触れようとしました。手が姫君に伸びた瞬間、その賊は後から攻撃を受け、気を失い倒れました。
「ご安心ください。もう大丈夫ですよ」
とても容姿の美しい公達が、そうやさしい声で言いました。そしてその賊を牛車から引き降ろしました。その公達は外で何やら指示を出し、賊を従者たち命じて縄で縛り上げて捕らえていました。

公達が姫君の牛車の屋形近く来ました。手には引き千切られた簾を持っていました。しばらく「どうしようか?」というふうに簾を眺めていたが、突然懐刀を取り出し指貫《さしぬき》の紐を切りました。そしてその紐で簾を直しました。
「応急処置程度ですが、女性が乗られているので直しました。それから、倒れいるお供の方は、後ほどこちらで送り届けましょう。代わりに私の従者を二人お付けします。この辺は賊が多く出る場所ですので。それでは私はまだ任務の途中ですので、失礼します」
そう言って立ち去ろうとしている公達に、姫君は声をかけました。
「あっ、ありがとうございます。わたくしは関」
しかし、途中で公達に遮られてしまいました。
「関白家のお邸の方でしょう。私の従者をつけますが、気をつけてお帰りください」
「あっ、あのう、お待ちください。どうかお名前をお聞かせください」
姫君は勇気を出され、公達に聞きました。公達も「あっ」という顔をしました。
「私の名は宗近。衛門督です。怪しい者ではありません。それでは、失礼」
そう言って衛門督は牛車から離れ、近くに繋いであった馬の手綱を取り、捕らえた賊を他の従者たちと一緒に引き連れて去って行かれました。車の中には、微かに花橘の香りが漂っていました。姫君は、そのゆかしい香りをそっと胸に抱きしめました。

※※※

その日から、姫君は心秘かに衛門督を慕うようになりました。凛々しく美しい横顔が、目に焼きついて離れません。衛門督を思われる気持ちが強く、食事が喉を通らない程でした。日に日に痩せられ、とうとう床に伏す状態にまでなってしまいました。医者や恵心院《えしんいん》に隠棲している横川《よかわ》の僧都《そうず》などを呼び寄せました。薬を処方されたりや加持祈祷を受けたりしました。しかし、一向に良くなりませんでした。

心配した父関白が、姫君の住む東の対《たい》に遣って来ました。
「薬も加持祈祷も効果がないとは、いったいどうしたものか。阿倍か賀茂の陰陽師でも呼んでみたほうがいいだろうか。三の君や、本当にどうしたのだ。何か思い当たることはないのか。理由があるのか」
関白が、姫君を心配されて言いました。姫君は心の中で迷い、しばらく父君関白の顔を見つめました。額の辺りに白いものが増えていました。これ以上父君様に心配をかけてはいけないと思い、石山詣に出掛けたときのことを話しました。
「よく分かった。衛門督か。私の目から見ても、衛門督は立派な公達だ。東宮様がそなたを望んでおられるが、私にとってそなたはただ一人。それとなく中宮様に申し上げ、東宮様には四の君か五の君を入内させることにしよう」
関白は、深くうなずきながらそう言いました。
「お父様、本当に申し訳ございません」
弱弱しい声で言うと、姫君は床から起き上がろうとしました。
「これ、三の君。無理をしてはいけない。家の事はいいのだ。それよりも、三の君が良くなることが一番なのだ。三の君は目が高いと感心しておるのだ。衛門督なら申し分ない。我が家は天皇家の外戚だが、その天皇家を支えていく力もしっかりなくてはならない。衛門督は武だけでなく、非常に頭の切れる公達だ。私はなぜそこに気がつかなかったのだろうと、反省しておるところだ」
「お父様……」
「さてさて原因も分かり、そなたの病も快方に向かいそうだ。久しぶりに出仕するとしよう」
そう言うと、関白は体を持ち上げるようにして立ち上がりました。
「まずは帝と中宮様にご挨拶申し上げてくるとしよう。何、心配することはない。三の君や、そういう顔をするでない。大丈夫だよ。中宮様は私の娘であり、そなたの姉上でもあるのだから」
父関白のその言葉を聞いた姫君は、にっこり笑顔を作りました。
「おお、とても晴れやかな顔だ。久しぶりにそなたの笑顔を見て、父は嬉しく思いますよ。おお、そうだ。善は急げという。三の君や、今日は美しく着飾りなさい」
そう言い、関白は近くに控えていた乳母《めのと》の君や源少納言《げんしょうなごん》などの女房たちに何か指示を出しました。そして、出掛けました。

※※※

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