『水の都、蘇州の恋 』

著:横尾湖衣 価格:200円  レーベル:詠月文庫

【冒頭試し読み】
◆作品

「吐魯番《トルファン》の果実」
「水の都、蘇州の恋」
「牡丹の花」

◆あとがき

一、柳絮《りゅうじょ》

 沙漠の中のオアシス都市、かつてシルクロードが通った交通と交易の要所だった吐魯番《トルファン》には、のんびりとした時間が流れていた。「トルファン」はウイグル語で、「人と物が豊かな地域」を意味するそうだ。現地で雇ったガイドのA嬢から聞いた。
 佐々木美弥子《ささきみやこ》は、日本で知り合った中国人、楊俊熙《ヤンジュンシー》と一緒に西域を旅行していた。俊熙《ジュンシー》は名前の通り、才能に満ちあふれている人だった。俊熙は国費で留学に来ている優秀な人で、いずれはアメリカにも留学するようだった。
 美弥子は、その俊熙と不思議な関係で結ばれた。恋人以上でも、恋人未満でもない関係だ。お互い居心地のいい関係だった。
 美弥子は小さい頃から歴史が好きで、あるときふと見たテレビの中の世界、シルクロードに強い憧れを持った。大きくなったら、絶対シルクロードを旅するんだと思っていた。大学に進学し、そこで楊俊熙と出会った。俊熙は理系の学生だったが、美弥子は文系だった。文系でも経済学部の学生で、全く国際学部とは関係なかった。しかし、国際学部主催のシルクロードをテーマにした企画展があり、そこが接点で俊熙と出会ったのだった。本当に不思議な縁だ。そこから、二人で春休暇を利用してシルクロードを旅しようという計画を企て、現在に至る。

 その俊熙と現地ガイドのA嬢と一緒に、美弥子は今日も吐魯番の名所を回っていた。吐魯番は沙漠の中にある街なのに、葡萄の栽培が有名である。吐魯番の葡萄栽培は、二千年前に遡ることができるとも言われるほど、その歴史は長い。もちろんその収穫量は、新疆一《しんきょういち》である。また品種も何百種とあるそうだ。一口に吐魯番産の葡萄と言っても、奥が深い。その中でも良質なものは、白葡萄、馬乃子《マァーナァィヅゥ》、紅葡萄という種類だそうだ。「馬乃子」は、日本語で読むと「ばないし」と読むのかなぁ。 よく分からないので、美弥子は俊熙に教わった読み、中国語「マァーナァィヅゥ」という言葉でその葡萄を呼ぶことに決めた。

 途中、葡萄農家の建物がいくつかあった。吐魯番の葡萄は非常に甘く、美味だと聞く。美弥子は夕方出掛ける予定のバザールが楽しみだった。吐魯番産の干し葡萄とワインが目当てだった。葡萄の種類が多いということは、食べ比べ飲み比べができそうだからだ。
 葡萄の木には、小さく硬そうなビーズ玉のような緑色の葡萄の実が、いくつも房になって垂れ下がっているのが見えた。美弥子は眩しい沙漠の中の太陽の光を少しでも遮るため、つば広帽子を被り直した。

 葡萄畑の中に、丸く小さい綿毛のようなものがふわふわと浮いているのに気がついた。丸い綿毛は軽いようで、空気の中をまるで漂っているかのようにふわふわ舞っていた。そう、風に乗っているのではなく、空気に乗って浮かんでいるように美弥子の目には見えた。
「きれい。很美《ヘンメイ》! あれは何? 何ですか?」
 美弥子は俊熙に聞いた。
「柳絮」
 俊熙が、的確に答える。
「リュウジュ?」
 美弥子は俊熙の言葉を反復した。すると、俊熙は笑って、
「違います。リュウジョです」
 と丁寧に訂正した。
「リュウジョ?」
 もう一度、美弥子は反復した。
「そう。そうです、柳絮です。ほら、あそこに柳の木がありますでしょう? 見て下さい」
 俊熙は右の方を見て、指を差し場所を示した。美弥子は俊熙が指差した方を見る。柳のすぅーと垂れ下がった細長い枝より、やわらそうな羽毛のような綿が次々と生まれ、空気の中へ泳ぎ出していた。
 この時初めて、美弥子は柳絮というものを認識し理解した。人の話には聞いていたが、本当にきれだった。そして、まるで生きているかのようだった。「リュウジョ」、美弥子はもう一度心の中でつぶやいてみた。とても不思議な響きがした。
 ふと見上げると、青く澄んだ雲ひとつない沙漠の空に、白い生き物のような柳絮が染まることなく自由に飛んでいた。葡萄の木には、まだ早いビーズ玉のように細かく小さい青い実が、たくさんなっている。
「坎児井《カレーズ》、地下井戸を見に行きましょう」
 現地ガイドのA嬢が、二人を急かすように言った。現地ガイドのA嬢は、ウイグル民族ではなく、モンゴル民族の女性だった。
「坎児井は、枯れない井戸ね」
 日本人観光客を多く相手にしているらしく、日本語で冗談を言った。美弥子はベタな駄じゃれに、思わず笑ってしまった。美弥子はA嬢と話しながら、地下の万里の長城「坎児井」へ向かう。

※※※

 坎児井に着くと、俊熙が中国語でA嬢に話しかけ、何かを聞いていた。美弥子は思わず、流暢な中国語だなぁと思った。中国人なので流暢なのは当たり前なのだが、やはり流暢に話している俊熙の姿は格好良いなぁと思う。本当は流暢に日本語が話せる方に驚嘆するべきなのだが、近くに居すぎるとそれがよく分からなくなってくるようだ。
「美弥《みや》、坎児井はペルシャ語で地下水を意味するんだって」
「へぇ、地下水という意味なんですね。わたし、本当に枯れない井戸かと思ってしまいました」
「雨萱《ユィシェエン》、あとは君から美弥に日本語で説明してあげて。ぼくはパネルを読めば分かるから」
 現地ガイドのA嬢はそう俊熙に言われ、一生懸命に美弥子に坎児井の説明をし始めた。美弥子はA嬢の説明を聞きながら、何かが引っかかった。その何かというのは、俊熙がA嬢を「雨萱」と呼んだからだ。彼女の名前、雨萱と言うの? 何で名前で呼んでいるの? えっ、いつの間にそんな仲になったの? たくさんの「?《ハテナ》」が、美弥子の頭の中に浮かんできた。
 A嬢は一生懸命説明してくれているが、美弥子そのことばかりが気にかかって、全然頭の中に入ってこなかった。俊熙が、少し離れたところから美弥子とA嬢を見ていた。
 俊熙が美弥子の方に歩いてきた。
「美弥、ちゃんと聞いてます?」
 少しあきれたような声で、俊熙が美弥子に言った。
「うっ、うん。聞いてます」
 美弥子は必死になって返事をする。俊熙が「ふぅん」と小さく鼻で笑った。
「なーんか、消化不良起こしてそうですね」
 見透かしたように、俊熙が美弥子にとどめを刺した。「誰のせいよぉ。俊熙がこの状況を作ったんでしょう?」と、美弥子は俊熙を上目遣いで見る。
「美弥さん、可愛いですよ」
 俊熙がとてもきれいな笑顔を作って、そう美弥子に言った。そのきれいな笑顔に一瞬騙されそうになったが、美弥子は「人をからかったわね」と、さらに俊熙を上目遣いで睨んだ。現地ガイドのA嬢は、どうしたらいいのか戸惑っていた。
「はい、美弥。もうおしまい。ほら、雨萱が困っていますよ」
 美弥子は頭の回転では俊熙に叶わないと思い、「ふん」と顔を背けた。
「もう、楊先生。彼女をからかうのは、わたしの仕事が終わってからにしてください」
 それを見ていたA嬢が、これ以上仕事を邪魔されてはと思ったらしく、そうピシッと俊熙に言った。
 その後、A嬢は親切にも説明をし直してくれたのだが、残念ながら美弥子の頭の中にはあまり入ってこなかった。

 坎児井から出ると、外の光はまだ眩しかった。白い綿毛、柳絮がふわふわ飛んできた。美弥子はあわてて可愛らしい柳絮をひとつ捕まえた。手のひらの上で、陽に透かしてみる。春の雪のように淡い感じだった。ふうっと息を吹きかけると、柳絮はまたフラフラ群れに戻って行った。美弥子の心がほっと和んだ。「あれはきっと、ケサランパサラン。幸せを呼んでくれるという、ケサランパサラン」。美弥子は、何だか幸せな気分になった。

※※※

 その夜、俊熙が夜光杯《やこうはい》とワインを持って謝りに来た。葡萄の美酒と言えば、「夜光杯」。王翰の「涼州詞」に出てくる玉製か、もしくはガラス製の杯こと。

葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
醉ひて沙場に臥すとも君笑ふこと莫かれ
古来征戦 幾人か回る

 という詩の中にある「夜光杯」である。
 さすが俊熙だと美弥子は思った。沙漠という地で、夜光杯に葡萄の美酒を注いで飲む。そして、杯を月の光に透かしてみる。ワインも美味ながら、この雰囲気もすごくステキだった。

 俊熙が日中の井戸の話をし始めた。それはまるで音楽のように心地良かった。坎児井という井戸は、遠くに見える白い山脈、天山山脈の雪解け水をせき止めて、縦井戸と地下水道をつないでこのオアシスに引き込んでいるそうだ。だから、水が冷たかったのかと美弥子は思った。
 美弥子は俊熙の声が耳に心地良すぎて、だんだん眠くなってきた。遠くの方で俊熙の声が、聞こえるような感じになってきた。
「美弥? もしもーし、美弥さん? あーあ、もう寝ちゃって。仕方ないですねぇ」
 俊熙の声と同時に、美弥子の体はふわっと浮いた。美弥子の体はベッドに上に置かれた。
「靴ぐらいは、脱ぎましょうね。脱がせますよ」
 俊熙の手が、美弥子の足から靴を脱がせる。そして、掛け布団がそっと上に掛けられた。
「おやすみ、美弥」
 俊熙のとてもやさしい声が聞こえた。

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