『甘辛恋情設計プラン』 著:ごとう深恵 イラスト:E缶 本体価格:300円 レーベル:ヘリアンサス文庫

【冒頭試し読み】

敷地面積八十二平方センチメートル、建築面積百四十五センチメートル。都心にある一軒の建築設計事務所。
私、大川きずくは事務員として雇われており、必死にパソコンのキーボードを打ち続けている。他の社員は定時や一時間以内の残業で帰宅し、現時点で仕事を続けているのは私のみ。
この事務所でルーキーの立ち位置におり、新人であるが故に作業効率も悪く、進み具合が尋常ではないぐらいに遅い。主観的、客観的に見ても、私の仕事スピードは亀の歩行並みの速度だ。
私の仕事はお役所に申請する申請書の入力、敷地図から詳細図へと図面のまとめ。領収書や書類に印鑑を押す。書類のファイリング。事務所に訪れる業者や客人へのお茶出し。電話応対に、事務所内外の清掃、と雑用ばかり。
お茶汲みや電話の応対、清掃などの雑用に関して、自己評価では失敗はなく不満もない。個人的に問題なのは、書類への入力作業、だ。似たりよったりな名前に、住所によって入力を誤り、先輩らにチェックしてもらうときにお叱りを受けることもしばしば。
重要な書類をシュレッダーにかけたときには、とある先輩がもう我慢ならないと憤怒した。就業時間後に私を捕まえて事務所前で一時間以上も説教をしてきた。
仕事の失態に関しては私にも責任があるけれど、寒空の下でずっと叱られ続けてしんどかった。お陰で、翌日には喉が乾燥して鼻声になり、一週間も痛みと戦い続けていた。高熱が出なかったのは良かったが、仕事に支障が出て、お得意先の施工業者の部長さんに笑われてしまった。あんな羞恥な経験は二度としたくはない。
あの先輩の顔を思い浮かべてはいけない。今日は電話応対や接客などで書類作成ができなかったから、苛立ちの原因は頭の隅にでも置いておこう。
液晶画面と草案を何度も確認し、手を動かす。今日できる書類は今日中に完成を優先せねば。かぶりを振って意識を集中させ、作業を再開する。
「現場からただいま戻りましたー」
清らかな水の如く、すーっと通る声を耳にし、出入り口前に視線を向ける。そこには、あの先輩こと鶴見匠と、その相棒の矢部白太先輩ががほんのり頬を染めて立っていた。私の顔を見るやいなや、怪訝そうな面持ちとなり、扉を勢いよく閉め、戸棚の前に移動する。
まだまだ寒暖差がある季節のため、着込んでいる服も厚めのコートとダウンだ。
「また残っているの? 呆れるほどに作業が遅いな。残業が好きなのか」
嫌みを零されるのは日常的ではあるが、この圧を日常的に感じると麻痺してくる。
「おいおい、匠。残業代が昔に比べて雀の涙程度なのに、そうそう残りたい人間なんていないだろ。ね、きずくちゃん」
空気を読んでフォローを入れられて、ほっと胸を撫で下ろしてしまう。一年近くこの設計事務所で働いていられたのも、矢部先輩のバックアップがあったから。
別に好きで残業しているわけではない。そう噛みつきたかったが、切れることもなくキーボードを操作するのも、矢部先輩の一声で平静さを持っていられるため。
自分の生活が成り立っているのは、建築が好きよりも尊敬すべき先輩のお陰でもある。まったくもって、
鶴見先輩は私の三つ上で、設計士としてこの事務所に雇われている。所長らによると、学生時代から設計のコンペに参加しており、とあるゼネコン主催のコンペで賞を取ったほどの実力者らしい。現在も、設計業務の傍ら、コンペにエントリーしているとのこと。
一方、矢部先輩は設計士というよりもプランナー専門。元々大学時代も設計系ではなく、都市計画の研究室に所属していた。彼もコンペに参加していたが、デザインよりかは文章系で、これも賞を取った実力者。
方向性が別の二人ではあるが、話を広げて纏めるのがうまいのが矢部先輩。デザイン案を説明する鶴見先輩、とまあお互いにない部分を補っている。二人で動くのにも理由がある、ということ。
ちなみに、大学では建築学を学んでいた私だが、コンペよりもアルバイトや部活動に情熱を注いでいた。そもそも、建築物は好きでも、設計が苦手だったので、設計大会には眼中になかったもの。
「お帰りなさい、矢部先輩、鶴見先輩。今日は、少し作業が遅くて」
鶴見先輩に呆れ混じりの溜息を吐かれ、肩を落としながらこちらに視線を向けた。その際、矢部先輩が手を振ってくれた。
瞬間、心がほっこりしたが、帰社早々、どやされるとかありえない。私は事実を語っただけであって、相手を不快にさせたつもりはさらさらない。
仕事、目の前の調査表に目を通さなければ。鶴見先輩から画面へと目線を落とし、キーボードを叩く。
「てんで駄目なルーキーだな。お前、ここに入社して何カ月経過する? そろそろ、申請書類一式の作り方も覚えてもらわないと、解雇されるぞ」
鶴見先輩は説教と共に、いつも解雇の二文字を平気に口にする。所長や矢部先輩以外の上司は、ほがらかに間違いを指摘してくれる。
鶴見先輩の場合、指摘以外に脅しをかけてくるので、胃腸の辺りがキリキリと痛む。真面目な態度で聞かなければ、指摘が説教へと切り替わる。
愛の鞭だとしても、少々厳し過ぎますよ。
と、内心で呟く。私は画面から、鶴見先輩へと注目対象を変更する。
だが、人間とは摩訶不思議な生物であり、予想の範疇を超える行動を取る。鶴見先輩は私の真横に移動し、上から目線で睨んできた。
「人の話を聞けよ」
「そのつもりです……が?」
ああ、抑え込んでしまったものが小爆発させてしまった。押し問答にもならない口論が。私自身でも自制をせねばと思えど、癇癪玉が破裂しているため理性が効かない。
ここで一発言い負かしてやる! 乱暴に椅子から立ち上がり口を開いた瞬間、背後から口を押さえられてしまう。
「はい、ストップ。抑えて、きずくちゃん。匠もあれよ、なんで他人に対して火に油を注ごうとするの。暇なの?」
矢部先輩がへらへらと笑っているが、その場の空気を汲んでくれている。
「あのなぁ、白太。実際に、大川が俺にガンをつけているようにしか見えないのだが。人を選んで態度をコロコロと変えて不快にもほどがあるんだが」
「それ、ブーメランで匠にしっかりと戻ってきているぞ。きずくちゃーん、こんな奴、放っておいていいからご飯ごちそうするよ。居酒屋だけど」
居酒屋でもどこでも、お財布に負担がかからないのならばお付き合いをする。加えて、矢部先輩ならば疚しい行為に発展する可能性はない。
私は、覆われた手を上から指を絡めるように繋いで、矢部先輩の隣に立った。
「ごちになります。それでは、失礼します。鶴見先輩っ」
パソコンのアプリを全て保存し、電源を落として帰宅準備を始める。鶴見先輩辺りから真っ黒なものを感じるが、それはそれで華麗にやり過ごすのが一番である。
私は矢部先輩と共に、会社行き付けの居酒屋に直行した。給料日前もあってあまり混んでいないが、矢部先輩が座るのは定位置の奥のカウンターの席だ。
荷物を用意された籠に置いて、席に座るとドリンクメニューを渡される。好んでアルコール類を摂取しない上、明日の仕事に響いたりしたらという不安がよぎる。
「きずくちゃんはアルコール度数が低いカクテル? 僕は明日も商談だからノンアルコールのカクテルにする」
「あ、はいっ。でしたら私は、そうですね、ちょっとだけカシスオレンジ一杯で控えておきます」
「仕事を考えると、あんまりねー。明後日ならば、仕事がないから別に良いのだけど」
明日がある。社畜的発想ならば、休日前の飲酒は罪悪感で満たされてしまう。
有給休暇もそうだ。家族の付き合いのために休みを取る際も、仕事の穴を開けてしまったと思い胸が痛む。私も、完全なる会社一番の人間のため、風邪でもマスクで完全防備をして出社した。
本来ならば、こういう生活はいけないと頭に置きつつ、結局働いてしまう。まだ六ヶ月強経過しただけでも、こうなるのだから、私の未来に不安が。
料理を複数注文し、先に飲み物が運ばれてきた。私はカシスオレンジを受け取り、矢部先輩はシャーリー・テンプルを手にした。
「それでは、かんぱーい! 強もお疲れ様、きずくちゃん」
「乾杯です、先輩」

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