『社内特別調査官 明智凛々子は諦めない!』 著:柴田花蓮 イラスト:琴美むく 価格:500円  レーベル:ヘレボルス文庫

【冒頭試し読み】

社内特別調査官 明智凛々子は諦めない!

(一)

「……ねえ、もういい加減食べなさいよ。冷めるよ?」
「あと一枚です! よし、これ完璧ショット。で、これをそのままアップして……」
「だから! あんた人一倍食べるのが遅いんでしょ! そんなの、食べてからアップすればいいじゃない 」
「それじゃダメなんです! アップするにはタイミングも重要なんですよ! 私のフォロワーさんは、正午から二十分以内にページをチェックする人が多いんです。その時間にアップしてないと、人目に触れる機会が少ないじゃないですか! ログが流れちゃいますからー! それに……」
「わかったわかった。好きにしなさいな」

勤務しているKTコーポレーションのすぐ近くにある、まだオープンしてから二か月程度のカフェ。
そこに、昼時でも並ばなくてもすぐに食べれるように予約をしてまでやってきたというのに、料理が運ばれてきてから早五分。全くそれに手を付けずにスマホ片手に写真撮影している後輩に、明智凛々子はついつい小言を口にする。

そもそも、「新しくできたカフェに予約をしました! ランチに行きましょうよ!」と凛々子を誘ったのは、後輩・豊川文代の方だった。
会社周辺の飲食店情報を、おそらく全て網羅しているであろう文代。彼女はいつも、新しくオープンした店があると凛々子を誘ってくれる。見た目と反し「女子力」という言葉が皆無な凛々子にしてみれば、こうして安くて美味くておしゃれなカフェでランチが出来るのは嬉しい。

ただ、それと引き換えに、こうして文代の「インスタ職人」芸に付き合わなければならないというのは覚悟が必要である。写真を介し、不特定多数の人と交流できるSNSを使いこなすためには、文代曰く、写真の良しあしだけではなく、アップするタイミングやそれにつけるタグに至るまでも重要だという。
さすが、フォロワー数は数万人。下手な芸能人よりも有名なインフルエンサー。でも、出来れば温かい内に料理を食べてほしいと思っているのは、凛々子だけではないはずだ。
そう、「手間ひまかけて朝からお料理作りました!」とか「子供のお弁当、気合入っちゃいました!」みたいなものもニュースになるみたいだけれど、そういう煌びやかで華やかなものの裏には、料理を早く食べてほしいシェフや、温かい料理をおいしいうちに食べたいと願う人、そして、そんなに見栄えはいいから、とりあえず好きなものが入ったお弁当がいいという子供の存在も忘れてはいけない。
「はい、終わりました。さー、先輩食べましょう……って、もう食べ終わっちゃってるんですか」
「まあね。美味しかったわよ」
「良かったー。どれどれ、あ、本当だ。おいしー!」

そんなことはお構いなしに、若干冷めてしまったエビグラタンを口に運びながら、文代がとろんとした笑顔を見せる。その愛らしくてふわふわした表情に、ああ、この笑顔に世の男どもは弱いんだよな――まあ、あたしもだけど。と、凛々子は小さなため息をつく。

KTコーポレーションの親会社「豊川財閥」の会長の孫娘であり、なおかつ同財閥の代表取締役の一人娘という、輝かしいバックグラウンドを持つ文代。
豊川財閥は潤沢な資金面はもちろんのこと、世界中に不動産を持つ上、我が国の経済界・政財界でも大きな影響力を持っている、いわばフィクサー的な存在だ。つまり文代は超、いや超超お嬢様ということになる。
時折彼女の口から出る、「昨日はオジサマとコンサートに行ったんですー」という言葉。
もちろん彼女のいう「オジサマ」はそこら辺にいる中年オヤジのことではなく、誰もが知っている大物政治家だったり、大御所俳優だったり、と中々油断ならないところなのである。

そんな文代は、「社会勉強の一環」という名目で、このKTコーポレーションで働いている。家では使用人が身の回りの世話をしてくれて、当然ながらアルバイトの経験もない。ちなみに、街に買い物に出る時は、欲しいものを欲しいだけ(気に入った場合は店ごと)買い占めることもあるようで、文代の部屋のクローゼットには、彼女お気に入りのブランドの店舗さながらに服が並んでいるらしい。特にパステルカラーでフリルがあしらわれているようなワンピース類には目がないらしく、大量に服を購入しても、実は同じ洋服はワンシーズンに一度しか着ないという拘りもあるらしい。そういう面では、色々な感覚がぶっ飛んでいるお嬢様であることは間違いない。
そんな、リアルに「間違いなく箸より重いものを持ったことがない」状態の彼女に出来る仕事は何だ、と、彼女の入社前には相当会社上層部が悩んだらしい。しかし結局は当たり障りのない人事部内で、簡単な書類整理と受付、部長の話し相手になる、という業務に就くことになったようだ。

そんな仕事も本人的には一生懸命こなしつつ、外見も「女の子」を絵に描いたようにふわふわしている文代。
一般社員には彼女の素性は伏せられているものの、生まれ持っての高貴さや生活水準の高さは隠せるものではない。
おまけに女子力も高く、愛らしい外見ゆえに男性にも人気がある彼女は、当然のように入社してすぐに先輩女子社員に目をつけられてしまい、あげく嫌がらせを受けはじめた。
それを、偶然その現場を目撃した凛々子が助けたことで二人は出会ったのだった。
凛々子は、文代とは別の広報部に勤務している。だからそれまではほぼ、面識がない状態だった。
昔から、「度胸」と「フットワーク」(ついでに外見)だけは自信がある凛々子は、そこを買われて若くして広報部門へと配属された。
広報部門はフットワークがわりと命取り。 当然、そんな活発な部署にいれば性格も「活発」になる。外見は完全に女性、しかし中身は完璧に男性――男性社員よりも男性らしいともっぱらの評判の凛々子は、たまたま見かけた文代のいじめ現場で、いじめていた女子社員たちを一喝したのだった。
それ以降、文代を救った凛々子は文代の「騎士様」となり、懐かれているのである。
「それにしても、どうやってこういうお店を探すの? すごいリサーチ力じゃない。うちの部署に来ればいいのに」
「先輩の部署は、空気の流れが違いますー。それに、お店はインスタを活用すればすぐに見つかりますよー」
「そういうもの? あたし、そういうのはやらないからわからないけど」
今のこの時代にSNSを一切利用しない凛々子には、文代を理解するすることは難しい。
凛々子がSNSを利用しない理由はただ一つ、いわゆるそういったSNSに時間や思考を支配されて時を過ごすのは嫌だと思うからだ。広報という仕事上、それに恵まれた外見故に取引先の人に「アカウント教えてよ。プライベートでも繋がろうよ!」と言われるものの、そのたびにKTコーポレーション広報部の公式アカウントを教えてはその場を乗り切っている。やらないならやらないでも、生きていける。それが凛々子の考えだ。
それについては、文代もそれはわかっているようで無理強いはしないが、自分のインスタ芸に凛々子を付き合わせるのは厭わないらしい。
「まあ、文代が予約までして来たかったカフェだから、ある程度は予想していたけれど、味は良かったわね」
凛々子は食後のコーヒーを口にしながら、文代に礼を言う。ところが、
「予約をしたのは、ここで少しお話をしたかったからですー。並んでいたら、昼休み間に合わないだろうしー」
文代は「ごちそうさまでした」とナプキンで口を拭った。そして頼んでおいたカフェモカを口に含むと、
「実は先輩に、相談があるんです。まず、これ見てください」
そう言って、先ほどまで手にしていたスマホの画面を凛々子に見せた。
それは、文代のインスタグラムのページ――ではなく、別人のページだった。
どこかのお店の、おいしそうなパスタの写真。その下は、どこかのお店のケーキの写真。
一人の女性が、「みてみてー! 超インスタ映えじゃない?」的な雰囲気丸出してケーキと共にそこに写っている。一緒にいる人間が撮ったのだろう。
「……えーと、リア充の若い女性を羨んでるってこと? 大丈夫、文代の充実ぶりには勝てないと思うよ」
「違いますよー。この写真、よく見てください。ほら、ここ。そしてこっちのここも」
「んー?」
文代が、画面をピンチアウトする。凛々子が文代の意図がわからないまま画面に目を近づけると――妙なことに気が付いた。
二枚の写真、明らかに店内の様子が違うので別の店舗と思われるが、何故か女性の背後に「同じ男性」が映っている。
両方とも、マスクをして帽子を目深にかぶっている為顔ははっきりとわからないけれど、着ているジャンパーは同じだった。
「……飲食店で席についているのに帽子もマスクも取らないなんて異様ね。その時点で怪しいけれど」
「それもそうなんですけどー、この人が写っているのってこの二枚じゃないんですー。ここ二か月くらいの写真全てに写っているみたいなんですー」
文代はそう言って、「ほら、ほらこれも」と、その女性がアップしている写真を凛々子に見せてくれた。確かに、そのようだった。
「実は彼女、うちの会社の子なんですー。最初、彼女が自分でこの異変に気付いて、わたしにダイレクトメッセージをくれたんですよー。もしかしたら、ストーカーに狙われているかもしれないって」
「ふーん……それは、豊川財閥の財力を使って相手を見つけ出して、警察に引き渡してほしいってこと?」
「それもあるかもしれませんけどー、それよりもー、もしも社内の人間だったら怖い、って思っているみたいですー。彼女が写真を撮るのは週末でー、男もそのたびに。ということは、もしかして平日は仕事をしているのかもって、考えたみたいですー」
「なるほどね」
「でー、私、一応人事部の人間だし、部署柄似た男を見たことないかって言うんですー」
「それで? みたことあるの?」
「さすがに、社員一人一人の顔なんて覚えているわけないじゃないですかー」
「……だろうね」
「だからあ、先輩にも一度彼女からちゃんと話を聞いてもらった方がいいと思ってー、彼女と会う約束をしておきましたー」
「あ、そう……って、はあ!? 何で私がっ」
ただの「興味深い相談事」だったはずが、いつの間にか巻き込まれている。驚いてテーブルの上のカップをひっくり返しそうになる凛々子だったが、
「だって。私一人ではー、ラチがあかないんですものー。いいじゃないですかー」
「それにしたって、私が聞いたところで……」
「先輩は広報部だし、人の顔を覚えるの得意じゃないですかー。ね? いいでしょ? 私を助けてくださいー」
文代が両手を合わせ上目使いで凛々子を見る。

出た、必殺「お願い」ポーズ。
社内の男どもはこれでイチコロ。凛々子には効果はないけど、でも外ならぬ可愛い後輩の頼みを無碍にするわけにはいかない。

「うーん……じゃあ、話を聞くだけだよ? わからなかったら、それまでだからね」
「ありがとうございまーす! だから先輩、大好きですー」
「はいはい」
笑顔の文代に小さくため息をつきつつ、凛々子はすっかり冷めてしまったカップのコーヒーを飲みほした。

(二)

すっかり「あの言葉は今」状態になってしまったプレミアムフライデーよりも、強制的ノー残業デーの方が一般社員としては遥かに嬉しい。
今日は、その強制的ノー残業デーだった――のに、いまだ帰宅することなく、人気の少ない談話室の側に凛々子は立っていた。
現在、五時四十分。すでに定時は過ぎているが、例の「相談事」に巻き込まれたために、凛々子はそこで文代と待ち合わせをしているのだ。そこに、
「お待たせしましたー! 先輩、行きましょー」
普段からスーツで出勤している凛々子とは違い、制服から私服に着替えた文代が笑顔で駆け寄ってきた。
相変わらずの巻き髪、レースをあしらったスカートに、可愛い系が好きな若い女子に人気のブランドバックに靴。遠くから廊下をかけてくるだけなのにそこにはキラキラオーラさえ感じる。仕事終わりだというのに、まるで朝家から出たての時と同じ香り、綺麗な私服。
社内会議で一バトル、社外プレゼンで一肌脱いで午後の数時間が一気に過ぎたヨレヨレスーツ姿の凛々子とは天と地、いや宇宙と地下数百メートルほどの差がある。
「待ち合わせ場所はどこだって?」
「東側の奥にある階段の、三階踊り場ですー。人目を避ける場所っていうと、そこしか思いつかなくてー」
「はいはい」
凛々子は文代と合流し早速待ち合わせ場所の踊り場へと向かおうとするも、「先輩、ちょっと待ってください」と文代が立ち止まる。
「どうしたのよ。何か忘れ物?」
相変わらずおっちょこちょいねえ――凛々子が呆れた表情をするも、文代は「違いますよー」と否定しつつ、
「実はもう一人、協力を頼んだんですー。その人が来るのを待ってくださいー」
「もう一人?」
「はいー。ほら、うちの会社って、派遣さんも使っているじゃないですかー。正社員の採用は人事部が担当しているんですけどー、派遣さんの採用については、調達部が担当しているんですー」
「へえ。何だか面倒なのね」
凛々子は文代の説明に、思わずそんな声を漏らす。
職員の採用というと「人事が担当」と思われがちだが、企業の中には採用形式によってその窓口を分けている場合も多々ある。
ここKTコーポレーションもそのようで、正社員や契約社員などいわゆるKTコーポレーションが「直雇用」している人間は人事部が管理する。しかし、派遣社員――いわゆる「派遣元」があり、そこがKTコーポレーションと「派遣契約」を交わして、そこから派遣されてくる社員たちについては、その窓口である調達部門が責任を持っている。
人を取り扱うのに、「もの」を取り扱う調達部が担当だなんて――と凛々子には若干抵抗があるが、今更そこをここで議論したところで何かが変わるわけではない。
「相手が派遣社員という場合もあるしー、調達部の人にも協力をしてもらおうと思ってー」
「ふーん。文代、顔が広いわねえ」
「先輩も知ってる人ですよー」
「え?」
「来れば分かりますー。あー、きたきたー」
文代がそう言って、廊下の向こう側に向かってひらひらと手を振っている。
調達部に知り合いなんていたっけ――そんなことを思っていた凛々子だったが、文代が手を振っている方向を見た瞬間、「ああ、なるほどね」と思わず苦笑いする。

「文ちゃーん! お待たせー! やーん、文代ちゃんその服可愛いねー!」
「ありがとー」
「わ! 凛々ちゃんも久しぶりー! 凛々ちゃんてば、相変わらずスーツが決まってオシャレー! さっすが、同期の華! でもだいぶお疲れ? 肌の艶が足りないわよお!」

廊下の向こうから、そんな声と共に文代のもう一人の協力者が駆けてきた。
長く、よく手入れされた黒髪を後ろで一つに束ね、文代に振り返す手の指は季節の花をあしらった華やかなネイル。女子に人気のリングもきらりと右手中指に光っていた。
すらりと細身の身体に、きちんとアイロンがかけられた白いワイシャツとキャラクター柄のネクタイ、同じモチーフが付いたネクタイピンがよくマッチしていた。
靴だって、廊下の蛍光灯に反射して光を放っている。よく磨かれている証拠だ。近づいてくるたびにふんわりと、ジャスミンの香りがするのはフレグランスにも気を配っている証拠。類は友を呼ぶのか。文代同様、こちらに駆け寄ってくるその姿は、全身よくコーディネートされているし手入れされており、清潔感にあふれていた。
ただ――文代とは明らかに違う点が、その人には一つあった。それは――

「――小林くん。君も相変わらずね」
「もう、そんな堅苦しい呼び方はナシナシ! アタシのことはハカセって呼んでって前から言ってるでしょ! 物忘れの酷さはビタミン不足の証拠よ、美容の天敵だわ!」
「はは……」

――そう、文代が用意していたもう一人の協力者は、女子も顔負けするくらい女子力の高い「男性」なのだ。
身長百八十五センチ、モデル顔負けの容姿と体形――にも拘らず、時々毒を混ぜながらフレンドリーに話しかけてくる女子力の高い彼の名前は、小林博士。凛々子と同期で現在は調達部にいる。
最近はイベントなどの仕事で外に出ていることが多かった凛々子は、彼の存在をすっかり忘れていたのだ。
入社当初、その整った容姿から女性に人気があった博士。しかしふとしたことから彼の「女性的」な部分が出てしまい、女性社員からは受け入れられたものの、男性社員からは嫌がらせを受けるようになった。
それを――これまた凛々子が割って入って嫌がらせをやめさせて以降、博士も凛々子には懐いている。
最近では文代とも交流があるようで、男顔負けの凛々子、社内のアイドル・文代の影響で、すっかりと嫌な思いをすることはなくなったらしい。それどころか、社内で博士のオネエっぷりを知らない人はおらず、むしろ、オネエをカミングアウトした上に裏表なく誰にでもズバズバとモノを言うそのキャラクターは、調達部の名物。いやむしろ、癒しの存在になっているとかいないとか。
「来てくれてありがとー、ハカセくーん」
「文ちゃんの他ならぬ頼みですもの、当り前じゃない! それに凛々ちゃんも一緒だなんて断る理由なんてないわよ!」
「ハカセくん、先輩のこと大好きだもんねー」
「もー! やだ、文ちゃんたら! そんなにはっきり言われちゃ恥ずかしいじゃない!」
仲良さげに博士のことを「ハカセ」と呼び、なんの抵抗もなく女子トークを繰り広げている文代と、乙女のごとく顔を真っ赤にして身をよじっている博士。一瞬めまいがする凛々子だったが、「んんっ」と咳払いを一つした後、
「……文代、時間はいいの?」
「あ、たいへーん。それじゃ待ち合わせ場所に移動しましょー。三人で、GO!」
「やだー、探検隊みたーい! 文ちゃん隊長、よろしくお願いしまーす!」
「了解しましたー」
「……」
もはや、何も言うまい。凛々子は苦笑いしつつ、二人の後に続く。
こうして三人は、ようやく例の待ち合わせ場所へと歩き始めたのだった。

(三)

文代に相談を持ち掛けてきた女子社員との待ち合わせは、午後六時ちょうどだという。
ところが待ち合わせ場所近くに来た段階で、すでに六時を迎えていた。人事部や調達部がある事務部門があるフロアから待ち合わせ場所に行くまでには、十五分ほどかかる。それに加えて少し無駄話をしていたせいもあり、約束の時間を少し遅れてしまったのだ。
「悪いことしちゃったわね。彼女、待っているんじゃない?」
待ち合わせ場所に向かう廊下を早足で歩きつつ、時折振り返りながら後ろを歩く文代たちに凛々子は目をやる。
文代もそうだけれど、博士もこの状況なのに走るどころか急いでいる素振りがない。
今までの人生の中で、人との待ち合わせに遅れない率百パーセントの凛々子にしてみれば、この状況で全く動じない二人を理解できない。しかし、
「先輩、そんなに慌てなくても大丈夫ですよー」
「いや、逆になんでそんなにのんびりしていられるのよ。待ち合わせ時間、過ぎているんでしょ?」
「だって歩いて向かっているわけですしー、向かっているってことはー、そのうち着くってことですからー」
「そりゃそうだけど!」
「凛々ちゃん、急いだところで過ぎた時間は戻らないでしょ? 走って汗かくのも嫌だし、のんびり行きましょうよ。それに、汗臭い女子は大きなマイナスよ」
「いや、だから相手を待たせているんだって!」
どうにもこうにも、のんびりしている二人がこれ以上急いでくれる素振りはない。とはいっても、凛々子一人で待ち合わせ場所に急いだところで、文代を介さなければ話は進まない。
仕方なしに二人のペースに合わせた凛々子だったが、それでも少し早く、目的の東階段へと辿りついた。
階段はらせん状になっており、五階まで続いている。
途中の三階部分に踊り場があり、その踊り場には西側の建物――商品開発・研究部門へと続く渡り廊下との境であるガラス戸がある。ガラス戸の向こうは、西側各部門の休憩室、更衣室、清掃用具室等の部屋へ続くドアが並んでおり、その奥が研究開発部門の現場だ。
つまりKTコーポレーションは、事務部門が入っている東側の建物と、渡り廊下を挟んで研究部門が入っている西側の建物の二層構造となっているのである。
建物自体にはエレベーターも設置されているので、ほとんどの職員はエレベーターで階を移動する。階段を利用するのは、エレベーターが故障した時と、用がある場所に階段を使った方が近い時だけ。
それに加え、今日は強制的ノー残業デー。事務部門の職員は率先してそういう日は帰るため、西側の職員が、わざわざ定時後にこちらの階段を使って移動することは殆どないと考えてもいい。
ということは、つまり今日にいたってはこの東側の階段を利用する人はほぼおらず、人目にはつきにくい、という文代の考えは正しいということになる。
「待ち合わせは三階の踊り場だったっけ?」
「そうですー」
「三階まで昇るのね……やん、筋肉痛になっちゃったらどうしよう」
ようやくたどり着いた文代に場所を確認し、三人はいよいよ女子社員が待っているだろう三階の踊り場部分へと向か――おうとした、ちょうどその時だった。

「キャー!」

静寂な空間を切り裂くような甲高い悲鳴が、突如三人の耳に飛び込んできた。それと同時に、バタン、ガタン、ガン、ガン――と鈍く重い音が頭上から聞こえてくる。
頭上に見える螺旋階段の裏側を、まるで何かが転がってくるかのような――そんなことを思っているうちに、不意に現れた「何か」がザザザー! と凛々子たちの目の前の階段を勢いよく滑り落ちてきた。
滑り落ちてきた「何か」は、階段を昇ろうとしていた凛々子の足元に止まった。
先ほど頭上から聞こえていた音でもわかる通り、ここに来るまでにいろんな場所にぶつかったのだろう。足元の「何か」は、ところどころ赤黒く変色していた。
それに、徐々に徐々に――凛々子の靴の下に、どす黒い液体がその「何か」からにじみ出て染み始めていた。
凛々子は、ゆっくりとその「何か」に目を落とす。
そこでようやく凛々子は気が付いた。その「何か」が人間だということに。そして、靴の下ににじみ出ているそれは血液で、その人は悲鳴と共に階段を転がり落ちてきたということに。落ちてきた「それ」は、制服姿の女性だった。靴は脱げ、階段を転がり落ちた衝撃でストッキングも無残に破れている。かろうじて意識はあるようだが、途切れ途切れのうめき声をあげるのみで、呼びかけたところで今の段階では意思表示は出来そうもない。
「凛々ちゃん、どうし……きゃー! いやああ!」
凛々子――よりも早く、博士が悲鳴あげて地面にしゃがみこんだ。
文代も「きゃ!」と顔を手で覆っていたものの、指の隙間から倒れている人物の顔を見た瞬間はっと息をのみ、
「あ、この方……! 先輩、この方、わたしたちが待ち合わせをしていた例の方ですー!」
と凛々子に叫ぶ。そして、「あれ?」と言いながら、倒れている彼女の側にしゃがみ込む。
「…」
凛々子は、再び螺旋階段の上を見上げる。
残念ながら、その階段の形式故に、彼女がいたらしい踊り場までは見ることはできない。
事故ならともなく、今更上に駆け上がったところで、犯人はきっと逃げてしまった後だろう。そうこうしているうちに、

「どうしたんですか? 何か……うわ!」
「今の悲鳴、何……って、きゃああ!」

先ほどの女性の悲鳴を聞きつけて、渡り廊下の先にある部門の職員たちが階段を下りてきて騒ぎ始めた。
白衣を着た研究員、スーツ姿の男性陣、近くを清掃していた清掃員――もろもろだ。
――ストーカー被害を受けているかもしれないと相談しようとした矢先に、階段から転落? しかも、普段はほぼ利用することがない、こんな人気のない場所で?
事故? それとも、まさか――?
「ハカセ、救急車! それと、文代は今の段階で社内に誰が残っているか、記録をチェックして! 私は……覚える!」
凛々子は二人に指示を出しつつ、自分の記憶力をフル活用すべく、現場に集まってきた人々の顔を必死に記憶に焼き付けたのだった。

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