『華麗なる御子左家一門の歌人たち―中世和歌の世界を築き上げた人々―』

著:横尾湖衣 イラスト:E缶 価格:350円  レーベル:夕霧徒然双紙

【冒頭試し読み】

 ― 目 次 ―

   ◆はじめに
   ◆第一章 衰退しゆく和歌を危惧した後鳥羽院
    ・第一節 後鳥羽院について
    ・第二節 政治的危機感と和歌の衰退
    ・第三節 後鳥羽院の和歌
   ◆第二章 『定家家隆両卿撰歌合』四十三番に見る中世和歌の特徴
    ・第一節 藤原定家について
    ・第二節 藤原家隆について
    ・第三節 『定家家隆両卿撰歌合』について
    ・第四節 「四十三番 左」(藤原定家)について
    ・第五節 「四十三番 右」(藤原家隆)について
    ・第六節 後鳥羽院と『定家家隆両卿撰歌合』
   ◆第三章 時代を諦観しながら、和歌に情熱を傾けた式子内親王
    ・第一節 式子内親王について
    ・第二節 式子内親王の表現について
    ・第三節 時代を諦観しながら、歌で語りかける式子内親王
   ◆第四章 御子左家を支えた天才貴公子、藤原良経
    ・第一節 藤原良経について
    ・第二節 天才貴公子、藤原良経の歌に見る情と景のバランス
   ◆おわりに
   ◆〈主な引用文献・参考文献一覧〉
   ◆あとがき

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  はじめに

 和歌の歴史は長い。現存するわが国最古の歌集である『万葉集』には、約千三百年前に詠まれた歌々が蒐集されています。古代社会に誕生した和歌は、時代を超えて主に短歌という形式によって、今も脈々と受け継がれてきており、歴史のあるわが国固有の文学になります。その永続性を決定づけたのは、古代和歌から中世和歌への飛躍だと言えます。文芸としての和歌を語るには、中世という時代に詠まれた和歌の位置は重要であります。
 中世という時代において、和歌というジャンルに何が起こったのでしょうか。中世初期の歌人たちの創作の過程を、丁寧に考察していく必要があります。また、中世和歌の詩的性を見逃してはならないでしょう。

 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて、九条家歌壇の流れを引き継ぎ、「歌道の家」として確立された家があります。それは藤原俊成《ふじわらのとしなり》・定家《さだいえ》父子が率いる「御子左家《みこひだりけ》」でした。そして、中世初期の歌壇には、もう一つ歌道の家がありました。その歌道の家は藤原顕季《ふじわらのあきすえ》を家祖とする「六条家」です。六条家は源俊頼《みなもとのとしより》等の六条源家《ろくじょうげんけ》と区別するため、六条藤家《ろくじょうとうけ》ともいいます。六条家を代表する歌人には、崇徳院《すとくいん》より撰進を命ぜられ『詞花和歌集《しかわかしゅう》』を完成させた藤原顕輔《ふじわらのあきすけ》やその子息の清輔《きよすけ》、勅撰集である『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原有家《ふじわらのありいえ》等が挙げられます。
 中世初期の歌壇では、その六条家が御子左家と対抗していました。しかし、後鳥羽院《ごとばいん》が藤原俊成に師事したこともあり、後鳥羽院歌壇以降、次第に御子左家の勢力が強くなっていきました。
 その御子左家には、藤原俊成・定家の他、代表歌人として俊成の養子になった寂蓮《じゃくれん》、その寂蓮の聟となったという説のある藤原家隆《ふじわらのいえたか》、俊成の孫であり養女となった藤原俊成女《ふじわらのとしなりのむすめ》、そして『新古今和歌集』に四十九首入集した式子内親王《しょくしないしんのう》等、そうそうたる名が挙げられます。

 六条家の『万葉集』を尊重する理知的な歌風に対し、御子左家は三代集(『古今集』『後撰集』『拾遺集』)を尊重する詩的な歌風でありました。さらに御子左家は歌壇に新風を吹かせ、新しい表現も積極的に生み出しています。
 中世和歌の世界を語るには、初期の御子左家の歌人たちの作品を見ていく必要があるでしょう。『万葉集』や『古今和歌集』ももちろん重要ですが、やはり『新古今和歌集』は特別な位置にあると思います。物語の最高峰が『源氏物語』なら、和歌の最高峰は『新古今和歌集』だと思われるからです。なぜなら、『源氏物語』以降『源氏物語』を超える作品が誕生しなかったのと同じく、『新古今和歌集』以降『新古今和歌集』を超える歌集が誕生していないからであります。

 中世和歌の華麗なる一門、御子左家の歌人やその歌歌を見ていきたいと思います。そこには美しくも儚い世界、切ない世界、華やかな世界等が、詩情豊かに広がっていることでしょう。

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### 第一章 衰退しゆく和歌を危惧した後鳥羽院

   第一節 後鳥羽院について

 後鳥羽院は第八十二代の天皇で、高倉天皇《たかくらてんのう》の第四皇子になります。生年は治承《じしょう》四年(一一八〇)、没年は延応《えんおう》二年(一二三九)で、平安末期から鎌倉初期という激動の時代を生きてこられました。
 寿永《じゅえい》三年(一一八四)、平家が安徳天皇《あんとくてんのう》を奉じて都落ちをしました。その時践祚《せんそ》(天皇の位を受け継ぐこと)したのが後鳥羽院になります。安徳天皇が退位しないまま、天皇の位につきました。その後鳥羽院は建久《けんきゅう》九年(一一九八)に譲位し、院政をしきます。院政をしいて間もなくの正治《しょうじ》二年(一二〇〇)、後鳥羽院は当時の歌人達を結集させ、歌壇活動を盛んにさせていきました。
 その中でも、後鳥羽院は藤原俊成に師事しました。そのため、後鳥羽院が特に重んじたのは俊成を指導者とする御子左家一門でした。一介の貧しい中流貴族であった藤原定家が、新古今歌壇の代表者に引き上げたのがこの後鳥羽院になります。

   第二節 政治的危機感と和歌の衰退

 中世初期の歌壇において、『新古今和歌集』の撰進を命じた後鳥羽院の存在はとても大きいです。『百人一首』を撰歌した藤原定家やその父である俊成などの陰になってしまいがちですが、見落としてはならない存在であります。

 一一八五年、鎌倉幕府が成立します。一一九二年に源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の初代将軍となりました。しかし、頼朝は落馬によってその後死亡してしまいます。次にその息子である頼家《よりいえ》が二代目将軍となりますが、これは暗殺されてしまいました。そして、その弟である実朝《さねとも》が三代目将軍となりますが、これも頼家の息子である公暁《くぎょう》によって暗殺されてしまいます。
 その後、将軍の代理人であった執権の北条氏が実権を握ります。幕府の将軍が源氏だったという点は重要でありました。なぜなら、「源」というのは皇族が臣下の籍に降りる際に名乗る氏《うじ》だからであります。つまり、源氏将軍は天皇家の血筋を引いているということになります。その血筋が絶えたということは、日本という国の統治のあり方が問われることにつながってきます。日本という国を統治するのは、本来朝廷であるからです。それが、朝廷側の怒りが高まった原因の一つになると思います。実際に、朝廷と武家政権との間で武力による争いが起こりました。政治的危機感を持った後鳥羽院は、幕府執権に対して討伐の兵を挙げたのです。その兵乱こそが「承久の乱」(一二二一)です。その承久の乱にて敗れた後鳥羽院は、隠岐に配流されることとなりました。

 後鳥羽院が持った政治的危機感は、和歌衰退の危機感とは全く無関係ではないと思われます。後鳥羽院は鎌倉への対抗意識から、和歌に非常な熱意を示しました。
 歌合や歌会を行ったり、百首歌を二度主宰したりと、和歌への志を深めています。そして建仁《けんにん》元年(一二〇一)に和歌所《わかどころ》を再興し、藤原定家・藤原有家・源通具《みなもとのみちとも》・藤原家隆・藤原雅経《ふじわらのまさつね》・寂蓮の六人に勅撰集の命を下しました。その勅撰集が『新古今和歌集』であります。

   第三節 後鳥羽院の和歌

 『新古今和歌集』には、後鳥羽院の作品が三十三首入集しています。

  見渡せば山もと霞むみなせ川夕べは秋と何思ひけん(巻一・春上)

 歌の内容は「見渡すと、山の麓が霞んでいて水無瀬川も煙っている。夕暮れの眺めは秋こそが最もよいなんて、なぜ思ったのであろうか」という感じになります。「みなせ」は水無瀬で、摂津国にあった後鳥羽院の離宮が作られた所であります。「夕べは秋」というのは、夕暮れの眺めは秋が最も優れているということを詠んでおり、これは清少納言の『枕草子』の「秋は夕暮れ」という部分を引いて詠んでいます。

  此の比《ごろ》は花も紅葉も枝になししばしな消えそ松のしら雪(巻六・冬)

 この冬歌の内容は「冬も深くなったこの頃は、花も紅葉も枝に見当たらない。しばらく消えないでいてくれ、松に積もっている白い雪よ」というような意になります。この歌は本歌取りの歌で、本歌は、

  降る雪はきえでもしばしとまらなむ花も紅葉も枝なきころ(『後撰和歌集』巻八・冬・読み人知らず)

 という歌になります。
 また、「三夕《さんせき》の歌」の一首でもある「み渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」(『新古今和歌集』巻四・秋上・藤原定家)という歌が、参考歌としてあげられます。
 二首とも『新古今和歌集』の中にある歌で、後鳥羽院は教養の深い美意識を持っていたことがわかります。

  秋の露やたもとにいたく結ぶらんながき夜あかず宿る月かな(巻四・秋上)

 この歌は「秋の露がわたしの袂にたいそう多く置いているのであろうか。長い夜をいつまでも宿り足りないかのように袂に映って、光っている月であることよ」というような意味です。露は落ちやすく消えやすいので、はかなさや涙にたとえられることが多いです。露が置くのは秋だけではありませんが、特に秋の露は秋という季節のもの悲しさやもの寂しさと相まって、涙やはかなさを助長させるものであります。
 この歌も本歌取りの歌で、本歌は、

  鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな(『源氏物語』桐壺・靫負命婦《ゆげいのみょうぶ》)

 という『源氏物語』の中にある歌であります。若宮(光源氏)を出産した桐壺更衣《きりつぼのこうい》は、病で亡くなってしまいます。その後のお話になります。今上帝である桐壺帝が、靫負命婦を亡き桐壺更衣の里に遣わします。そこで靫負命婦と桐壺更衣の母とが、亡き桐壺更衣を偲びます。その場面での歌になります。歌意は「あの鈴虫のように声の限り泣きつくしても、秋の夜長でも足りないくらい止めどなくこぼれる涙でありますことよ」となります。鈴虫の鳴き声で、秋の夜長の悲しみがさらに際立って増してくるという詠まれ方がされています。「ふる」には涙が「降る」と鈴を「振る」が掛けられています。
 参考になる部分は、同じく『源氏物語』(桐壺)の、

  月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり

 という部分で、前述の靫負命婦の歌の前にある文になります。現代語訳してみますと「月が沈みかけるころで、空が一面美しく澄み渡っているときに、風がとても涼しくなって、草むらの虫の鳴く声声が(涙を)誘うように聞こえるのも、たいそう立ち去りがたい草のもとであります」となります。空を見上げると月が沈みかけています。そして、風が涼しく感じられ、虫の音が聞こえてきます。視覚(空の月)、触覚(風)、聴覚(虫の声)と感覚に訴えてきます。さらに、空の月は上、風を感じる中、足元の草むらから聞こえる虫の音は下とだんだん表現が低くなり、足止めをされるような感じになります。
 この『源氏物語』の世界が、後鳥羽院の歌の世界の下敷きにあります。後鳥羽院の歌は、秋の景と物語世界とが一体になっているような世界観です。妖艶で幽玄な余情が歌全体に広がり、歌の構造が重層的になっていると思います。

 これらの歌から後鳥羽院自身も、中世屈指の歌人だったことがうかがえます。その後鳥羽院が関わり、御子左家を代表する歌人定家と、その定家と当時並び称されていた歌人、藤原家隆の作品を、後鳥羽院自身が撰歌し合わせたものが残されています。それが『定家家隆両卿撰歌合《ていかかりゅうりょうきょうせんかあわせ』という撰歌集です。

(続きは製品版でお楽しみください)