鬼さんこちら、手の鳴る方へ
『鬼さんこちら、手の鳴る方へ』 著:鈴野葉桜 イラスト:天満あこ 本体価格:400円 レーベル:ヘリアンサス文庫

【冒頭試し読み】

目次

鬼さんこちら、手の鳴る方へ
番外編SS プレゼント

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鬼さんこちら、手の鳴る方へ

――鬼さんこちら、手の鳴る方へ

 カタカタといくつものパソコンのキーを叩く音。書類をめくり、必要箇所を埋めていくボールペン独特の音。たまに聞こえる、椅子の背もたれ部分がギシっとなる音や、電話の着信音。そんなこの世にありふれた音が桃花《ももか》は好きだったりする。
 受け持っていた仕事を予定よりも早く終わらせることができ、手が空いたときにちまちまとやっている雑務を片づけていると、後ろから声をかけられた。
「一条さん、これ今日午後一の会議で使う資料だから、三十部コピーしておいてくれる?」
「はい、わかりました」
 すぐやらなければならないこともない為、すんなりと了承の旨を伝える。
 受け取った資料の表紙部分は、現在正社員として働いている鬼条院《きじょういん》株式会社のロゴと会議の議題が大きく書かれていた。
 その会社のロゴを見るだけで、思わず頬が緩んでしまう。
 桃花はコピー機に資料をセットして、言われた通りの部数をコピーする。機械特有の音をBGMに、ある一人の人物を思い浮かべた。
(これ悠《はる》くんが、今一番力を入れている仕事だよね。私もお仕事、頑張らないと!)
 コピーが全て終了すると、一セットごとに分けて資料の端をホッチキスで止めていく。
「前島さん、三十部作り終えました。この資料を使う場所って十五階の会議室Aですよね? もう、持っていっても大丈夫です?」
 壁にかけられた時計を見れば、昼休憩の三十分前を指していた。午後一で使う資料ならば、休憩前に用意しておいた方がいいだろう。それに持っていくだけなら忙しそうにしている前島よりも、手の空いている桃花が行った方が効率がいい。そう判断して上司である前島に確認をとり、了承の返事をもらう。
「よろしく頼むよ。あ、それと一条さん。どうせ準備し終えた頃だと休憩時間に入っちゃうだろうから、そのまま休憩に入っていいよ。……彼とゆっくりしておいで」
 悪戯な笑みを浮かべながら、囁きの声で言われた言葉が耳に届くと同時に、自身の頬が赤くなるのを感じた。
「もう、前島さん。最後の一言は余計です! ……でも、ありがとうございます」
 好々爺とした前島にちょっとした文句を言いながら、頭を下げた。
 資料を両腕に抱え、エレベーターへと向かう。ちょうど同じタイミングで乗る人がいたらしく、それに便乗して扉が開いたエレベーターの中に乗り込んだ。
「何階にいきますか? て、あれ、桃花ちゃんじゃん、久しぶり」
「あ……千葉さん。え、と、十五階でお願いします」
 親しそうに桃花の名前を呼んだ人物が、同期の千葉だと気付き、心の中でしまったと呟く。
 千葉は誰にでも愛想がよく、見た目もそこそこいい上に、入社半年にしては仕事もできると評判の男性社員だ。そんな千葉だから、女性からも男性からも人望が厚く、好感を持っている人の方が多い。
 しかし桃花からしたら、少し苦手な人種だった。
 桃花はどちらかといえば、おとなしい性格で、自ら友達を作りに行けるような積極的さは持ち合わせていない。入社して半年なのにも関わらず、会社内で気兼ねなく話せる友達は高校の時から親友一人しかいないのがその証拠である。配属された部署が違う為、昼食時以外会社内では会えないのが現状だ。
「わー、こんなところで桃花ちゃんに会えるなんて嬉しいな。元気してた?」
「えーと、はい」
 エレベーターの中には最悪なことに二人きりだ。早く十五階についてほしいと祈りながら、愛想笑いを浮かべる。
 入社時の歓迎会以来、あまり話したことのない桃花に対して話題が尽きることはなく、様々な話を振ってくる。桃花はそんなおしゃべりな方でもないことから、端的な相槌や頷きしかすることができなかった。そんな自分自身を情けなく思いながらも、エレベーターがようやく十五階に着いたときに気づかれないようほっと息をはいた。
 扉が開き、千葉に頭を下げてエレベーターの外へ出ようとしたとき、ふいに後ろから肩を掴まれた。その手を乱暴に振り払うこともできず、その場で足を止めてしまう。どうしようかと逡巡しているうちに、千葉が桃花の前へ回り込んできた。
「ねぇ桃花ちゃん、今度一緒にご飯行こうよ」
「え……?」
 まさかそんな誘いを受けるとは思わず、聞き返してしまう。
「だからご飯だってば。会社の近くでいいところ見つけたんだ。俺、前から桃花ちゃんのこと可愛いなあって思っててさ。駄目、かな?」
 千葉の顔が桃花の顔の近くまで接近してきた。
 千葉にとっては何気ない行動。でも桃花にとっては過去を思い出させる行動だった。
 ぶるりと身体が震えてしまう。四年前のことを身体が思い出して、拒絶反応を起こし始める。
(大丈夫、千葉さんはあの人じゃない。大丈夫、大丈夫)
 気付かれないように深呼吸をして、千葉に頭を下げた。
「ごめんなさい。私、彼氏がいるのでそういうのはちょっと……」
 彼氏、というのは少し違うが、似たような類の人物がいるのには変わりない。千葉が本の少しでも桃花に好意を持っているのなら、ここではっきりと断るべきだろう。
「……そう、なんだ。桃花ちゃん可愛いもんね。彼氏くらいいて当たり前か。じゃあさ、今週末同期で久しぶりに集まろうって話が出てるんだけど、それならどう? 女子もいるし皆で楽しもうよ」
 押しが強く断るにも、断りづらい。それに断る理由が見つからない。どうしようか迷っているとエレベーターの外から声をかけられた。
「エレベーターの中で何をしている。エレベーターを待っている他の者が迷惑するだろう」
 その声の主は千葉の手を桃花の肩から造作もなく払うと、自身の方へ引き寄せた。いきなりの事によろけながらも、その手がしっかりと桃花を支えてくれていたおかげで、転ぶことを逃れることはできた。
 転ばないように必死だったせいで、足元しか見ていなかったが、千葉はしっかりと相手の顔を見ていたようだ。
「鬼、鬼条院専務!! 申し訳ありません!!」
 千葉は無造作に手を払われたことよりも、この会社で自身よりも遥かに偉い立場にある鬼条院悠生《きじょういんはるき》に対して、慌てて頭を下げて謝罪をした。
「一条も、その資料午後一の会議用資料だろう。早く持っていけ」
「は、はい!!」
 タイミングよく現れた鬼条院に頭を下げ、千葉にも軽く頭を下げると小走りに会議室へ向かった。
 会議室の中に入ると、ひとまず机に資料を置いて腕をほぐしながらほっと息をつく。
「悠くんがきてくれて助かった……」
 そんなことを呟いたとき、会議室の扉が開かれた。
 独り言を聞かれたかも、と心臓が大きく音を立てる。恐る恐る後ろを振り返るとそこには、鬼条院悠生がいた。その姿を確認すると同時に安堵の息をつく。
「なんだ、悠くんか。驚かせないでよ、もう」
「桃花、本当に君からは目が離せないよ」
 扉はすぐに閉められ、誰も入ってこられないようにと、悠生によって鍵をかけられる。ガラス張りの会議室であるものの、白のスモークが貼られていることから、外から桃花たちの姿を見られる心配はないだろう。
 長い足で桃花の元まで歩み寄ってくると、頭をくしゃりと撫でられた。
「うわっ、悠くん! 髪の毛くしゃくしゃになっちゃうよ」
「少しくらいいでしょう?」
 言葉遣いは先ほどと打って変わって柔らかい、本来の話し方になっていた。
 小さな頃から変わらない笑みを浮かべられ、もう、といいながらも許してしまう。そんな悠生の顔をこっそりと覗きみした。
 どの角度から見ても、まるで一つの絵のように整った顔。日本人にしてはすらっとした百八十センチ以上ある高身長。誰の目からも明らかに高級なスーツを着こなして、伊達メガネをかけている姿は、理想の社会人そのものだ。伊達メガネ越しの瞳は、心配げに桃花の姿を映していた。
「それよりも大丈夫だった?」
「うん、悠くんがきてくれたから……」
 身体の震えはもうないし、悠生のおかげで気持ちは大分落ち着いている。
「ならいいけど。でも桃花を働かせるのは、やっぱり今でも反対だよ。桃花はもう俺の大事な奥さんなんだから」
「う……でも……」
 桃花とは十も離れているが、生まれたときから悠生は桃花にとっては頼れる兄的な存在だった。桃花の父親と悠生の父親が元々同級生で、一緒に鬼条院株式会社を作ったこともあり、桃花が生まれる前から家族ぐるみでの付き合いをしている。そして現在の会長は悠生の父親だが、取締役社長に就いているのは実は桃花の父親だったりする。ちなみに上司の前島は父親達の友人で、上の役職に就いても遜色ない人物だが、本人たっての希望で今のポジションにいるらしい。悠生と桃花の関係を社内で唯一知っている存在だ。
 つまり桃花は鬼条院株式会社のれっきとした身内なのである。もちろん入社はコネだ。しかし入社に必要な基礎知識などは父親から直々に叩きこまれているので、普通に受けても受かっただろうと言われている。桃花自身身内の会社だからといって、辺りにいばり散らすような性格ではないことや身内ということを敢えて隠している為、取締役社長の一人娘がまさか同期や後輩にいるとは思ってもいないだろう。
「でもじゃない。さっきも俺がタイミングよくこなかったら、どうするつもりだったの」
「それは……」
 悠生は桃花の視線に合わせるように、膝をまげた。その姿は、小さい頃から何も変わらない。変わったことといえば、四年前の事件の際に悠生から告白されて、さらに過保護になったことくらいだろうか。
 あの時、もし悠生が助けにきてくれなかったら、桃花はここにいなかったかもしれない。反論できずに黙っていると、長い溜息が耳に届いた。
「今の俺の収入でも、桃花を十分に養っていけるから桃花が働く必要はない。それでも桃花がこうして働いているのは、桃花が社会人として働いてみたいといったからだ」
 最初は鬼条院株式会社と全く関係ないところで、ひいき目なしに自身の力だけで働く予定だった。しかしそれは悠生や父親に断固反対をされ、互いに妥協を重ねた結果が今だ。期間は二年、鬼条院株式会社で働くこと。それ以降は子作りに励み、妊娠が分かり次第会社を辞めること。それを条件に社会人になることを許された。
 もちろん働かずに悠生の帰りを待つ主婦をするのが、決して嫌なわけではない。
 せっかく大学まで出たのに就職をせず、お金をどうやって稼ぐのか知らない人間にはなりたくなかったのだ。桃花の家は父親が取締役社長ということもあって、お金に困るような家庭ではない。それ故にバイトをしたこともなければ、自分で稼いだお金も持ち合わせたことがなかった。
 女なんだからそれでもいいじゃないかと周りの大人は口を揃えるが、それではよくないのだ。桃花が働きたい理由はもう一つある。それはずっとお世話になってきた兄的な存在でもあり、頼れる旦那さんでもある悠生に自分のお金で何かプレゼントをしたいということだった。だから今がお金を貯める一番のチャンスなのだ。

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