『年上おじさまを脅して同棲始めました』 著:如月一花 イラスト:稲垣のん 本体価格:300円 レーベル:ヘリアンサス文庫

【冒頭試し読み】

目次

年上おじさまを脅して同棲始めました

 これでよし。
 昼休みだというのに、片桐まことはパソコンに向かってキーを叩いていた。
 同僚はみんな外に昼食を取りに出ていたが、まことはお手製の弁当を食べながらディスプレイを見つめていた。
 白シャツにフレアスカートを履き、肩ぐらいのボブで切り揃えて、目がぱっちりしているので快活そうにも見えるまことだが、ひとつだけ誰にも言えない趣味がある。
 フォークでミートボールを突いて食べながら、社内の『おじさん分布図』を作っているのだ。中小企業だが老舗の文具メーカーな為にまこと好みのおじさん、もとい、おじさまがたんまりいるのだ。若手なんて目もくれない。
 昼休みはもっぱら、各部署にいるおじさまについてデータをまとめているのだ。
 仕事が残っていると言って同僚の前では真面目を通しているが、頭の中はおじさまのことでいっぱいのちょっとしたマニアックな女子だった。
(経理の佐藤さんは几帳面で真面目。この前、伝票の間違えを指摘されたけど、そこが仕事に真面目で、物腰も柔らかく聞いてくるからいいんだよねえ。経理のボスって感じで)
 うふふっと思わず笑みを零しながら、きんぴらごぼうを口に運ぶ。
 分布図を見つめていると、午前中の疲れが癒されていく。他にも、企画部には家庭的な眞鍋がいるし、総務部にはぬくぬくな性格の恩田がいる。
 秘書室長は眼鏡の似合う御剣だ。
 しあわせ、そんなことを思いながらデータのアップデートをしなければと頭の中のデータをパソコンに書き写す。
 経理の佐藤さんは最近ジムに通い始め、企画部の眞鍋は婚活中。秘書室長には第一子が誕生して――。
 そして、わが営業部の堂島悟(どうじまさとる)課長、三十八歳には、噂では昇進しそうだ、と。
(堂島課長、独身、彼女ナシ、婚活もしてないのに、どんどん昇進してくなあ)
 とろんとした目で画面を見ていると、朝のことを思いだす。
 思い出すだけでも胸が自然と鳴りだした。
 寝ぐせで跳ねた後ろの髪の毛に気が付くことなく、席について物凄く真面目な顔でパソコンに電源を入れ、猛然と仕事に取りかかるのだ。
 目つきは厳しく口元は引き結ばれていて、黒髪は綺麗に流してある。が、後ろの髪の毛がぴょんと飛び上がっているが。
 もちろん、まことはそんな可愛らしい堂島の姿を、パソコン越しに脳裏に焼き付けていた。
 仕事で忙しくしているから、誰も気が付かないのだろう。ここはまことが教えてあげれば、と席を立つ。
 恐る恐る堂島の前に出ると、じろっと睨まれた。
「なんだ?」
「堂島さん。あの、髪の毛、後ろの方が寝ぐせで」
「うわっ。恥ずかしいな。ありがとな」
 そうして、堂島がまことの隣のすり抜けた時だ。
 ふわんと犬の匂いがしたことがあった。香水の匂いでもシャンプーの甘い香りでもなく、犬独特の匂いにまことははっとした。
(犬、飼ってるのかな)
 そうだとして、まことの脳内データに新たな情報が書き加えられるだけなのだが、その日は違和感があったのだ。今まで犬の匂いなんてしなかったし、髪の毛だってきちんとしていた。
 まるで慌てて家から飛び出してきたような、そんな様子にまことはある仮説を立てた。
 もしかしたら、堂島は犬が好きでたまらない性格なんじゃないかと。
 もしくは、彼女とぎりぎりまでいちゃついていて、犬の匂いを付けてしまったか。
 ただし、後者はなしだ。
 堂島の周りに女性の陰はなく、密かに人気こそあれ、厳しい眼差しと仕事熱心な姿勢に、同僚とは恋をする雰囲気にならないでいる。
 社外の全くプライベートな人間かとも思ったが、堂島はたっぷり残業していたし、曜日感覚もゼロ。頭の中には仕事のことでいっぱいという雰囲気だ。
 恋をしている中年男性という雰囲気ではない。もちろん、婚活もしていない。
 そういう色恋においての必死さが皆無だった。
 それに、世間でも子どものように愛犬を飼う人はいるし、独身=ひとりが好きというわけでもないと思うのだ。
 むしろ、犬がいるということは少なからず寂しさを感じているはずだ。
 ということは、まことにもチャンスはある。
 二十六歳、独身、処女、おじさま以外に興味なし。
 そんなまことに、千載一遇のチャンスが舞い込んできたかもしれない。
 とはいえ、堂島と話すチャンスは限られているし、仕事中は厳しいし、仕事以外の話をしているとじろっと睨まれる。
 徹底した成果主義者だが、それすらまことは好きだった。
 仕事の鬼、仕事が恋人。そんな堂島が好きだったのだ。
 そんな彼が家で愛犬にだけ顔をほころばせていると思うと、微笑ましくなる。
「ありがとな。片桐。悪いがついでにこの資料頼む」
「わかりました。すぐにとりかかります」
「午後でいいから」
 そう言われて、まことはピンと閃いた。これで堂島ともう一度会う口実が出来る、と。
 すぐにデスクに戻り資料を作り、保存すると頭の中は堂島のことで満たされた。
 そしてそんなことがあった午前中が終わり、おじさま分布図を更新して、いよいよ昼となったわけだが。
 まことは、資料を手にして決意を固めた。
(犬飼ってること、多分、堂島課長はあまり知られたくないと思う。厳しさと全然合ってないし。これは使えるはず)
 すっと立ち上がりデスクに向かうと、堂島がちらりと目を上げる。
「お、ありがと」
「あの、ちょっとお話が」
「長いのか?」
「ご相談があります」
「いいけど、手短にな」
 億劫そうに立ち上がるので寂しくなるものの、まことは休憩室に向かう。堂島はまことにコーヒーを手渡してくれると、頭を下げて受け取った。
 こんな風に部下思いなところも好きだが、周りの女子だって気に入っている。
 でも、周りは堂島に対してミーハーだが、まことは本気だ。
「課長、犬を飼ってますよね?」
「なんで知ってる?」
 堂島が一瞬眉を動かして怪訝そうな顔を見せる。
 まことはやっぱり触れられたくないのだと悟った。
「朝、匂いがしたので」
「悪かったな。朝は忙しくてさ」
「そういうの、堂島課長のキャラと合わないというか。女子に言いふらしたら、威厳がなくなるというか」
「なっ……!」
 堂島がバカ言うなとばかりに顔が引きつらせる。
 どんな脅しだと目を丸くしているが、まことは気にするものかとにこりと微笑んだ。
 おかしな脅しだろうが、一方的な片想いだろうが、まことの想いは限界だった。
 入社からずっと堂島を思って四年目だ。ただじっと観察するように見て、ひとり満足していることにも、さすがに疲れた。それに、年齢を思えば二十六歳だ。
 彼氏と結婚すら考えてる同期もいるのに、堂島のことを思って余計な出会いは避けていた。そうすることで堂島に対して潔癖さを見せたかったのだ。
 それに今の年齢なら、年の差はあるが、入社の新人に手を出したという悪い言われ方はされずに済むだろう。
 もう仕事だって自立しているし、堂島にだって迷惑はかけないつもりだ。
「威厳もなにも、犬飼ってるくらい……」
「小型犬でも?」
 まことはカマをかけた。
 なんとなくだが、大型犬を飼っているとは思えなかったのだ。散歩だっていかないといけないし、仕事で忙しくしているなら、なるべく手間のかからない犬がいいだろう。
 誰かに預けることになったときには、小型犬の方が面倒を見てくれそうな気がする。
「チワワを飼ってる」
 恥ずかしそうに言うので、まことはふふっと思わず微笑んだ。
 もはや堂島の弱みを握ったも同然だ。
「女子が好きそうな犬ですよね、チワワ。上司って、それなりにイメージって大事じゃないですか。とくに新人の前とか」
「おい、片桐。おまえ何が目的だ?」
「犬のことを黙っていて欲しければ、私と付き合ってください」

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